『友愛を歌う日-Curse Of the Beast- 』
私は鼻につく異臭で訪問者の気配を察した。
何かが焦げたような、甘いような、どこか酸っぱいような。
この夜更けの闇に乗じて、宿屋内に魔物でも進入したのではないだろうか。
と一瞬、戦慄したが、今日が何の日であるかを思い出して、
私は武器に手を伸ばしそうになったのを止めた。
…そして、想像通りに叩かれたドア。
「クリフト?いるかしら?」
「…いませんよ」
私は気の利いた返事も思いつかずにそう答えた。
「…いるじゃない」
「…そのようですね」
私は覚悟を決めてドアを開いた。
開くや否や、遮る物がなくなった異臭の元が尚一層の刺激を放った。
「姫様。今年もなかなかの上出来ですね」
「でしょ?」
姫様が両手で大切そうに持つトレイの上にはケーキの皿。
見た目はケーキには見えない。
申し訳ないが、正直に、単刀直入に例えるならば、イチゴの乗った黄土色のヘドロだ。
「…今年も、竜も一撃で殺せそうな香りです」
「でしょ?」
この祝日、姫様の性質の悪いところは“不味いことを承知の上で持ってくるのだ”。
「でも、食べてくれるんでしょ?」
姫様は残酷にも可愛らしい笑顔で私にそう念を押した。
私が始めてサントハイムの城に上がった年のことだ。
姫様はずっと手作りのお菓子を作っては空回りする結果に、城中の者から倦厭されていた。
そんな周囲の人間の中でも“私だけ”であった。姫様の手作りの菓子を食べきったのは。
長い間、避けられてきたであろうその兵器的な菓子を始めてまともに食べてもらえたことを、
姫様は随分感激されたのか、私の手を取って、目を見て、『ありがとう』とおっしゃった。
次の年も、そのただ一言が欲しくて、私は毒にも等しいその菓子を食べきった。
「今年もがんばって作ったの」
「………私も精一杯受け止めますよ」
私はうっかり今日がその日であることを忘れていたので、胃薬や下痢止めを用意していなかったが、仕方あるまい。
フォークを取ると、乗っているイチゴは中盤戦の口直しの為に後に取っておくことにして、そのヘドロに慎重に突き刺した。
途端にヘドロの中から酸っぱい香りの液体が漏れ出てきた。刺激臭の源はこれか。
「レモンソースを入れてみたの」
なんと余計なことを。それでも、私は顔色を変えずに言った。
「…どうりで唾液腺を刺激する香りがすると思いました」
背に冷たいものが流れるが、それを平然と口へ押し込んだ。
「………」
租借するのが苦痛であることも、いつまで経っても慣れない。
姫様が期待で溢れる眼差しで私を見た。
「美味しい?」
「美味しくありません」
涼しい顔でもう一口食べてみせる。
「今年のも、食べ物と呼ぶにはあまりにもかけ離れていらっしゃいますね」
さて、あと二口、というところで姫様が強い口調で私の名を呼んだ。
「もういい。もういいわ」
「…?」
途中で止められることは初めてだ。私は驚いた。
「不味いなら、食べなくていい」
「驚きました。…姫様、最後まで食べなくて良いとおっしゃるのですか?」
「そうよ」
姫様は私からフォークを奪い取ると勢いよく、残ったケーキを頬張った。
「…まずい」
「私は先程、美味しくない、と申し上げたではありませんか」
それでも、なんとか口の中の物を飲み込むと青い顔で何度か咳き込んだ。
「どうして…。どうして、私はたかがケーキが美味しく焼けないのかしら」
「……」
「私はお転婆かもしれないけど、女の子らしくお菓子作りとか、したいのに」
私は姫様の落ち込む様子を黙って見守っていた。
「ねぇ。クリフト。クリフトはどうして毎年、こんな出来損ない食べてくれるの?美味しくないでしょ?」
私は卑怯だと知りながら、問い返した。
「では、姫様は美味しくない、とわかっていらっしゃって、どうして私にくださるのですか?」
「それは…」
私は言葉が続かない姫様が、どんな言葉を発するのかを静かに待った。
しかし、私は分かっている。
それは、姫様が私を試していらっしゃるからでしょう?
すなわち、毎年のこの行事は“大切なものに感謝や友愛の気持ちを贈る日”ではなく、
“姫様が私の服従の意思を確認する日”なのだ。
だから、姫様はあえて、“一番の失敗作”を私のもとへと届ける。
そして、私はその試験に全力で答えるのだ。
私の全ては貴女様のものです、と。
「クリフト。聞かせてほしいの。貴方の気持ちを」
「分かりました」
今年は行動ではなく、言葉で示せとおっしゃるのですね。
私は席を立つと姫様の足元に跪いて、手を取り、その甲にキスをした。
「私の心も体も魂すらも、全て貴女様の下僕です」
「……」
言葉のない姫様を不思議に思い、私は顔を上げた。
「泣いているのですか?」
「…っ」
悔しそうに顔を歪めて涙を滲ませる姫様に私は戸惑った。
「クリフト、私は」
キスするために取っていた手を痛いくらいに強く、姫様は握った。
「貴方のことが好きよ」
「……」
私は呆然と姫様を見つめ続けた。
「好きなの。クリフトはそうじゃなかったの?」
あぁ、そうか。姫様は。
今年は試すだけでは、気が納まらないのですね。
私は自分のできる、一番穏やかな笑顔を浮かべた。
「私の気持ちは“好き”ではありません」
「!」
「私は姫様が万回、好きだ、と言ってくださる気持ち以上に、姫様を“愛して”いるのです」
「…それって…」
私は痺れるほどに、強く握り締められている手を強引に解くと、両手で姫様の手を包み込んだ。
「わかりますか?私の思いは深すぎて、姫様では受け止められないのです」
姫様が息を飲むのがわかった。
今度は私が姫様を試しているのだ。
もしかしたら、傷つけてしまうだろうか。
「もし、貴女様を殺すことができる程のこの深くて痛い愛を受け入れることが出来るとおっしゃるのならば、
万回、私のことを好きだと言ってください。今すぐに。そうしてくださるのならば、私は何日何晩でも側で見守って、
言い終わるのを待っております」
私は涙を浮かべる姫様に畳み掛けるように続けた。
「もしくは私に懇願してください。
貴女様の清い魂を、私が貶めることを望んで下さるのならば」
姫様は瞳を伏せた。
「そうすれば、貴方は私を受け取ってくれるの?」
「えぇ。そうしてくだされば、私は貴女様を奪って、私だけの物にします」
「……」
姫様は声を震わせた。
「クリフト。私を、貴方の好きなようにして」
「……望んでくださるのですね?」
「…望むわ」
震える声の誓約に私は嗤った。そして、姫様の襟元を掴むと強く引き寄せて唇を重ねた。
「!」
姫様の緊張した柔らかい唇を舌でなぶった。
そして、閉ざされた唇を割って舌を滑り込ませると、唾液のからまる音がした。
私は服の上から胸の柔らかいものを撫でて掴んだ。
「んっ」
姫様がくぐもった声で抗議すると、私の肩を掴む腕に力が籠められた。
その力に私はようやく顔を遠ざけた。
解放され、上がった吐息は熱を持ち、潤んだ瞳で私を見返す。
「“愛しています”。姫様」
「…クリフトっ…」
「……」
私は小さく笑うと、姫様から体を離した。
ドアを開けて外へと促す。
「さぁ、姫様。もう夜も更けております。…お部屋でお休みになってください」
姫様はどういうことが理解できないようだった。
「…え…?」
私は深く頭を下げた。
「さぁ、お帰りください。“私が貴女様を壊してしまう前に”」
「…っ」
姫様は口元に手をあてて、小さく声を嗚咽を上げた。
「何が、ダメだったの?」
……。
「次は私に殺されても構わない覚悟でいらっしゃってください。
…せめて、震えぬ程には」
覚悟が足りていない。そんな核心をつかれたのだろう姫様は無言でご自分の部屋へと戻っていった。
私は静かになった部屋で一人、溜息をついた。
あぁ、姫様。愛しています。
この優しくも暴力的な衝動は誰に制御できようか。
ダメだったのは、他の誰でもない。私だった。
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