『展望』



 クリフトは何故か不調のようだった。出発の際には特段変わった様子はなかったのに。
 下方の川も見えないような、切り立った谷間を切り崩して作られた小道は非常に足場が狭い。頼りないロープで 谷間に落ちてしまわないように、と気持ちばかりの補助がされている。 おかげで、狭い小道は更に狭く、人がすれ違うことも難しいほどだ。
 前方を歩くフレイとの距離が、油断するとすぐに離れてしまう。
 その度に慌てて、駆け足で追いかけた。
「それでね、この丘の上には500年ほど前の碑文があるんだ」
 と、後ろを振り返らずにフレイ。
「そうですか」
「そう。今回、もしかしたら 今流行りつつある伝染病についての何かわかることがあるんじゃないかと思ってね」
「そうですか」
「そう。それで、もしかしたら、かつて行われただろう対処方法なんかも発見もできるんじゃないかと思ってね」
「そうですか」
「…クリフト君」
「そうですか」
 クリフトは基本的に真面目で、人の話を聴いていないなどということは滅多にない話だが、 流石のフレイも呆れずにはいられなかった。
「クリフト君、人の話はちゃんときくもんだよ」
「す、すみませんでした…」
 振り返ったフレイの困ったような顔にクリフトも流石に気が付いて、申し訳なく謝罪した。
「そんなことなら、今度、懺悔室の当番代わってもらうよ」
「すみません」
 素直に謝るので、フレイは当面のところは許してやろうと、思ったそのときだった。

 ぐらりとバランスを崩すクリフトの体。

「なっ、クリフト君?!」
 フレイは手に持った荷物を放り捨て、慌ててクリフトの腕を抱えた。
 踏ん張った右足が小石を弾いて、谷間に落ちる。 渇いた小さな音がした。
「す、すみません」
 クリフトが眼窩を押さえながら片膝をついた。
「体調でも悪いのか?」
「えぇ、どうも調子が悪くて…」
「ちゃんと自己管理しなきゃダメだよ」
 引き返そうか、とフレイは立ち上がって気が付いた。
 咄嗟に投げた荷物の中のいくつかは、谷間に落ちてしまったことに。
「キメラの翼と記録用具…が、なくなったのか」
 まったく、とフレイは頭を抱えた。
「クリフト君。ここから歩いて戻るけど大丈夫?」
 見れば、クリフトは口元を押さえたまま、屈みこんでしまっている。
「大丈夫そうには見えないな…」
 フレイはため息をついて、クリフトの腕を肩にまわした。
「少し、戻ったところに気持ち開けたところがあったから、そこまで戻ろう」
「はい…」




 なんとか二人くらいが座って休めるような開けた場所まで戻ってきたころには、思った以上に 手間取った為か、日も暮れかけていた。
 そこはこの谷を通過する人々の休憩の定番の場所なのか、火を起こした跡も見えた。
 クリフトはどうやら、意識を失ってしまっているようだ。
 先程から、声をかけても何も反応がない。
 非常用の毛布を敷くとゆっくりと横たわらせてやる。
「…変わった様子はないな…」
 発熱や、脈、呼吸など、順番に確認してくが、何も変わったことはない。
 少し動悸が激しいくらいだ。
 原因がわからない。奇病だろうか。
「…う、フレイさん…?」
「寒くはない?今から火を起こすけど」
 気が付いたクリフトに少し、安心したフレイは笑顔を取り戻すと、火を起こすべく荷物を引き寄せた。
「…大丈夫です」
「そっか。熱はなさそうだから、その点は平気なのかな。何か変わったところはない?」
 お互いに簡単な医学の知識がある。フレイは本人にしかわからないだろうことを聞き出すべく、そう尋ねた。
「いえ、急に眩暈がして…吐き気と、動悸と、頭痛と耳鳴りと」
「…それは大病かもしれないね」
 フレイは聞いたことのないその症状に暗い顔でため息をついた。
(いや、もしかしたら)
 精神的なストレスから来る、パニック症状ではないだろうか。
「何か、嫌なことでもあった?」
 遠回しに聴いたつもりだが、クリフトも医学の知識がある。すぐにピンと来たようだ。
「………た、高いところが……」
 思い出したかのように青い顔をしたクリフトに自分の分の毛布もかけてやる。
「いいんだ。…少し寝るといいよ」
「はい…」
 クリフトがすぐにまた眠りに落ちたのを確認すると、フレイは炎を見つめた。


 しばらく、不寝番をしていたフレイだが、疲れてきたのか膝に肘をついて頭を支えた。
「…フレイさん…」
「起こしちゃったかな?」
「いいえ」
 クリフトは半身を起こした。
「フレイさん、お疲れですよね。フレイさんも休んでください」
 毛布を返そうとするクリフトを慌てて無理やり、もう一度押し倒す。
「いいよ、君が少し寝ていてくれないと安心できないから」
 だいぶ、迷惑をかけていることについて罪悪感が拭いきれないのか、クリフトはそれでも、 フレイから視線を外さない。
 仕方なしにフレイは、毛布の中に入り込み、クリフトの横に体を転がした。
「…じゃぁ、横にならせてもらうよ」
「はい」
 横になったまま、クリフトに背中を向けて火を見張り続ける。
 ふと、何気なく頭の向きを変えると、クリフトの寝顔が目の前にあった。
 どこまでも手のかかる後輩。
 フレイは手をのばしてハンカチを取ると、クリフトの額の汗を拭ってやる。
「…うぅ…」
 クリフトのか細い寝言。なんと哀れな。 過去に何があったかなど知らないが、ずっと、囚われ続けているというのか。
 フレイは思わず、その頭に触れるように撫でた。
「クリフト君。今は私がついているから、怖いことはないだろ?」
「…」
 険しかった、表情が少し和らぐ。
「な、怖くないだろ?」
 フレイは静かに呟くと、彼への心の平穏を願った。



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