『神官と笑顔-微笑みの作り方-』
青い空が音もなく広がる。そんな晴れた午前の天。
木々を揺らす風も無く、踏み締める大地も柔らかい春の芽吹きで柔らかく存在を迎え入れる。
なんの反応もないが、ただ爽やかで美しい。
まるで自分の知っている得体の知れない彼のようだ、と勇者と呼ばれる青年は思って空を見上げた。
その背後から声を掛ける予想通りの青年の声。
「勇者様。お迎えに上がりました。皆様探しておいでですよ」
「……そうですね」
振り返った先には絵に描かれた青空のように透き通った微笑みの神官が立っていた。
ふわりとした仕草で神官は自分の胸に手を当てて、軽く会釈をするように目を伏せた。
「何やらご気分が晴れぬ様子。宜しければ私がお力になれればと考えているのですが、いかがでしょうか?迷える者の相談事には慣れておりますし、口は堅い方ですよ」
そう言って、顔を上げて見つめる神官の瞳は曇りなく、彼の背後に広がる空に溶け込んだようだった。
勇者は一瞬迷った。迷って、自らの着衣の袖を少し掴むようにして手を組んだ。
その様子を見て神官は表情一つ変えずに続けた。
「分かりました、勇者様。勇者様がお求めなのは一人になるお時間のようですね。では、私は一足先に戻り、皆様にはうまく言って船旅前の最後の準備の確認を進めておきましょう」
それでは、と踵を返そうとする神官を迷いながらも呼び止めた。
「クリフトさん、……その……。教えて欲しいことがあります」
「……。えぇ、私にお伝えできることであれば喜んで」
躊躇うような間が少しだけ気になったが、振り返った神官の顔は何の曇りもない笑顔だった。勇者はこれからきいてみたいことが少し照れ臭かったので、そんな違和感はすぐに忘れて視線を迷わせながら言葉を探した。
「実は……、僕はクリフトさんは誰にでも優しくて配慮のある優しい方だと思っているんです。いつも笑顔でいて凄いなって思っているんで、僕も見習おうと思って皆と一緒にいるんですが……、どうも息が詰まってしまうことがあって」
故郷の村と似た緑の木々を見たとき。父や母が子と連れ立っているのを見たとき。知り合いに似た面影の者がいたとき。思い出してしまう、その仄暗い気持ちを隠し切れなくなりそうで。
少し言いづらそうに視線を踊らせる勇者から一瞬も目を離さずに神官はまっすぐに受け止めると、少し頷いて話の先を促した。
「それで少し息抜きに町はずれの丘から風景でも見たくて散歩に来ました。クリフトさんみたいに穏やかに笑顔で居られるコツを知りたいなって思ったんです」
神官は頷いた。身に着けている皮の手袋の端を引っ張って直してから一呼吸置き、胸に手を当てるようにして口を開いた。
「私は神官です。迷える者や困っている者、そして神を頼る者を導くのが務め。私が暗い顔をしながら、どうして誰かを前向きになどできましょうか」
「そうですか……。そうですよね。確かに。僕も勇者なんて持ち上げられちゃってるわけですし、僕も頑張らないと誰も勇気なんて出ませんよね」
仕事だから当たり前、そんな回答につまらないこと訊ねたことを恥じて少し捻くれた反応をした。たった今、自分で口にした言葉に反するので、内心頭を抱えたい程に後悔した気持ちを隠し、平然を繕った。
神官がいいえ、と首を横に振った。
「そうではありません。誤解をなさっていたら申し訳ございません。私は神官である自分の行いに誇りを持ってこの姿勢を貫いているのです。だから、貴方が私と同じになる必要はありません。貴方が貴方の出来ることに取り組んでいると知っている者は多いのです」
神官は言いながら腕を天に掲げて、空を見た。
「神の子にして、選ばれし者クリス。神はいつもご覧になっています。貴方が使命を果たさんとしている姿そのものが我々に勇気を与え、また奮い立たせるのです」
そう説く神官の姿は指先まで何もかもが描かれた絵画のようで。
「……クリフトさんは、いつも何が見えているんですか?」
穏やかに流れる川のように、全てを飲み隠していく姿に思わず口に出してしまった。
「…………」
神官は口を閉じるとまた真っすぐに勇者を見た。
「あ、すみません。せっかく僕を励まそうとしてくれてるのに……」
その言葉を聞くと神官は口元を抑えて表情を隠した。
「あ、本当にすみません……」
慌てる勇者の言葉に神官は表情を隠したままに答えた。
「ふふ……。いえ、いいのです。そうですね。失礼しました」
「??」
クリフトは帽子を外すと、その場に遠慮なく座り込んだ。
「少し話をしましょう。せっかくクリスが私を信じて話しかけてくださったのです」
さぁ、と隣の芝の上を示され、話についていけないまま、クリスは恐る恐る横に座った。
「あの……」
「神官としての私ではなく、私個人として貴方の信頼に答えましょう」
クリフトは地面に手を突くと、足を組んだ自然体で小首をかしげてクリスを見た。
「私も当然疲れますよ。神官として話すときには、顔に出さないように気合を入れなおして頑張っています。反論もせずに人の感情を受け入れるのは情緒に響きますし、ヘトヘトになるほど疲れたときの取り繕いは眩暈を起こしそうになるほど気を遣います」
クリフトは言いながら手袋も外して横に置いた。
「疲れますが修行ですし、誰かの役に立てるのならば本望です。ですが、クリスはクリスの自然体でいいのです」
「僕の自然体ですか……」
「えぇ。貴方が誰にも理解されないと思って隠している感情がありますね?」
クリスは内心どきりと震えた。
「それは……」
「いいのです。今は言葉にしなくても。ですが、“きっと理解されない”と思っているのは貴方だけかも知れませんし、“隠せている”と思っているのも貴方だけかも知れませんよ」
「!」
少し風が吹き始めて、クリフトは顔に当たる髪を抑えながら片膝に頬杖を突いた。
「皆さん……、いえ、私はそれでも周りに気を遣って明るく振舞う貴方の心の清らかさが眩しいのですよ」
“ね?”と微笑むクリフトの顔はまるで歳の離れた弟に声を掛ける兄のようだ、とクリスは思った。
「あ、あの……。僕は皆が僕のためにいろんなことを教えてくれたり、一緒に旅を続けてくれるのが嬉しいので、少しでも返したいなって思って」
クリスの言葉にクリフトはまた少しだけ声に出して笑むと応えた。
「理想の自分を演じるのは大変なことでしょう。よく分かります。少しずつでもいい。貴方が貴方らしく振舞えるよう、そして、貴方にそうして貰える頼りがいある仲間として振舞えるよう私も一歩ずつ踏み出しましょう」
クリフトは自分の唇の横に指を置いて口角を上げた。
「ご質問の答え、笑顔のコツです。人は突然、愛想良く笑顔を作れません。たまにこうして自分の顔を鏡で見て練習しています。後は……、どうしても腑に落ちないときは猫とスライムが戯れている様子を思い浮かべています」
「猫とスライム」
思わぬ提案にクリスは鸚鵡返しに呟いた。
「えぇ。サントハイムの城に居ついているのですよ。可愛い子が。今度ご紹介しましょう」
少しの間、そんな他愛もない話をしていただろうか。
クリフトは立ち上がると、少し伸びをした。
「さて、私はそろそろ戻りますが、クリスはもう少し気晴らしして行っても良いでしょう」
帽子を被り、手袋を手に取ると、透き通った空のような瞳で微笑んで一礼した。
「勇者様、お互い皆さんには秘密ですよ。では後ほど」
静かに去っていく後姿を見送ると、勇者は空を見た。
どこまでも青い空に、吹き始めた風の音がする。
「クリフトさん、きっと素でも自分で思うよりもずっと真面目な人なんだろうな」
会話を思い出し、勇者は青い空に向かって独り言を言った。
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