『しっそう』



 私はこんな世界があればいいと思う。
 誰も、苦しまず。誰も、泣くことなく。誰も、痛いと叫ぶことのない世界を。
 そして、それが私の身では適わないと、心のどこかで思っていながら。

 銀。
 希少価値、魔除け、毒見、の力と役割。 大体の場合において、重宝される金属だ。
 銀のフォーク。これこそが、私が初めて持った武器だった。

 息は上がりっぱなしだった。土砂降りの雨が、痛いほどに激しく体を打ち付ける。 私は目に入る髪を片手でかき上げながら、闇夜の森の中を必死に走った。 あまりの運動量に肺が呼吸を拒否して、痛覚に訴えている。 それでも、私は立ち止まるわけにはいかなかった。……私を院へと連れ戻そうとする追っ手がいることがわかっているからだ。

 私は人の腕を抉った血塗れた食器を一本だけ握り締めて走った。 サントハイム城を目指してただひたすらに。
 過ぎた日の約束を果たすために。
 私がずっと焦がれた姫君に尽くすために。
 curse of the beastと蔑称された私を救ってくれるだろう、神の元へ。




 城から逃れてすぐ、私の身を保護した城の重臣達はすぐに会議を行った。 着替えを渡され、雨と泥に汚れた服から解放された私は待合室のソファーの上で時間を持て余していた。 部屋から抜け出せないように鍵がかけられているようでドアノブは回らず、押しても引いても開かれることはなかった。  私は窓の外を眺めた。
 そういえば、初めて姫君に出会ったときも、こうして待合室で暇していたときだった。
 それは去年のこと。15歳になった私は修道院の寄付金をお願いするために城へと向かう同行をした。 ……私以上に適任だったものが、偶然にも体調を崩したためだ。 代わる人間は他にはなく、大人達は苦渋の決断として私を外へと連れ出した。
 そして、今日と同じように待合室でぼんやりとしているときに、窓の外に姫君を見つけた。 彼女はまるで、別の世界に生きる天使のようで、私が如何につまらない人間であったかを思い知らされたようだった。 修道院という狭い世界に閉じ込められていた私が、『この方の為に生きたい』と心に決めた程に。

 もの思いに耽っていた私の耳に、隣の会議室から怒鳴り声が聞こえた。
「……!……じゃないか!」
「……不吉だ!」
 私には会議の内容が手に取るように分かった。 異端の宗派の院の中でも、curse of the beast(呪いから生まれた子)と呼ばれる私が、 正統であり、厳粛な王家の住まう城に上がったこと自体が異例なのだろう。
 追い返されるだろうか。 追い返されたら私は殺されるかも知れない。それも仕方ないだろう。 生まれて16年。ようやく見つけることが出来た生きる意味。すぐに改宗の儀式だって受ける。元から異端の教えを信じてはいない。 姫君に仕えることが適わないのであれば生きていても仕方がない。 私は命を懸けて、やっとのことで逃げ出してきたというのに、このときは妙に冷静だった。

 コンコン。
 会議室が一瞬静まり返ったかと思うと、突然、ドアがノックされた。 私は肩を震わせて驚くと、呼吸を整えた後に返事した。それをきくと、私に気を使うかのように静かに鍵が解かれた。 何人かの老人と少女が入ってきた。姫様と、後に私がブライ様と呼ぶことになる老魔法使いだ。
「クリフトといったな?」
「……はい」
「背中を見せてくれるかの?」
「!」
 背には死を呼ぶと言われる異端の徒の証が刻み込まれている。見せればどうなってしまうのか。私は動揺した。
「……見せられないか?」
 私は必死に首を左右に振って拒否していたが、老魔法使いの後ろで姫様が私を心配そうに見守っているのを見て、 なんとか頷いた。姫様ならば信じられると思ったからだ。
 私が背を見せると、老人達がざわめいた。
「噂どおりだ。異端の宗派の徒の証」
「刻まれた番号は呪われた番号か。なんと不吉な……」
「あの異端の宗派の徒は死を招くと言われていますぞ」
 想像通りの反応に私は頭が冷えてきた。老人達の心無い言葉にぎりぎりと歯をかみ締める。
 老魔法使いは動揺すら見せずに、私に再び服を着るように促した。
「ええぃ。少し静かにしてもらえんですかな!」
  老魔法使いが声を張り上げた。あまりに激しい剣幕に、私も真っ白になって唖然と目を見開いた。 当然、おろおろと声を上げるだけだった老人達がようやく口を閉ざした。

「……ひどい体罰を受けて生きてきたんじゃな。……辛かったろうに」
 老魔法使いが「すまんかった」と私の背を優しく撫で、 姫様が自分が痛い目に合わされたかのように涙を浮かべた。
「痛かったんだね。でも、もう大丈夫だからね」
 驚愕した。信じられなかった。私は今までかけられたことのない暖かい言葉に喉を鳴らした。
「私は……」
 声にならない言葉に、私はもどかしい思いを味わっていると、姫様が老人達に向かって宣言した。
「クリフトをここにいさせてあげて!」
 老人達が顔を見合わせた。
「不吉、不吉、と。ただの少年じゃろうが。ここで保護せんと命も危ういかもしれん。姫様もお気に召したようじゃ。 この城の神父の助手に神官とでも役職を作って出向させればよかろう」
 老魔法使いの言葉に反対するものはなかった。

 私は止まらない嗚咽に顔を覆った。
「大丈夫だからね。必ず、私が守ってあげるから」
 姫様の声に、私はやっとのことで言えた。
「……生きたいです……」
の、一言を。

next

ウィンドウを閉じて戻ってください。
(色彩七題:純銀恋愛式)