『red』
“頭が痛い。
この村に着いた頃から頭痛が止まることがない。
もう、二日目だろうか。
こんな不快な地からは一刻も早く去りたいものなのだが、
この地に巣食う魔物を姫様が退治すると言って聞かないのだから仕方がない。我らが竜の神の敵とあれば尚更だ。
この地には魔物の気配と人々の無念や憎しみが同居している。
……魔法を心得る者の中でも聖職者は最も聖邪の気配に敏感だ。
姫様はもちろんのこと、老師様でも私の不調については理解に苦しんでいるのだろう。
願うことといえば、早々に問題が解決してこの村を出て行く日が訪れることだけだ。
ただし、その日はすでに決まっている。明日の夜だ。
明日の夜とは生贄を魔物に差し出すことを定められているそうだ。
この村の誰かの生死は私には直接関係はないが、
姫様がこの事件に心を傷め、正義感に燃えている。
それは私がこの村を助ける手伝いをすると決心するに値するほどに重要だ。
この村の名はテンペ。呪われた村だそうだ。”
私はここまで書いてペンを置いた。
意外に思われるかも知れないが、私は回顧録を欠かさない。
回顧録と言ってしまえば堅苦しい。日記と言葉を変えよう。
日記を記すのはサントハイムに仕えるようになってから欠かすことのない私の習慣だ。
この日記帳は分厚い。もう2年分の日記が残されている。
それでもまだ残りのページは半分も残っている。
これを旅の間に持ち歩くのはなかなかの苦心だが、欠かさないことの方が私にとっては重要だ。
私は日記帳を閉じて鍵をかけた。
この日記帳は深い青色。
私は青色が好きだ。特に深ければ深い青であるほどいい。
暗い、暗い青が好きだ。それでも黒は好まない。
それは深淵であり、絶望であり、虚無を思い起させる。
……そして、最も好まない色彩は赤だ。
赤は焼けた鉄と血を思い起させる。その色は私にとって過去を思い出させる恐怖の色だ。
「クリフト。明日について話し合うぞ」
「……すぐに参ります」
ブライ様の声に私は日記帳を荷物の中、奥底に隠すようにしまい込むと私はブライ様と共に姫様の下へと向かった。
「クリフト、お前は後からついて来い」
ブライ様の言葉に私は唇をなぞるように指を当てて考えた。
「……お二人で先行されるのですか?」
危険ではないのか。人数は多いほうが良いのではないか。
ブライ様は深く溜息をついて、当日に使う生贄用の籠を指差した。
「……もともと、女子が一人で入るもんじゃ。姫様とわしでも、狭いくらいじゃ。
お前が入るスペースなどないわ」
なるほど。突然に生贄を差し出す方法が変わるのも、魔物に不信感を抱かせかねない。
姫様が唇を尖らせている。
「……私一人で十分なのにぃ」
「姫様のご活躍の邪魔は致しませんよ」
私はこれ以上、ご機嫌を損ねないようにそう伝えた。
「じゃぁ、なんでついてくるのよ」
「姫様のご活躍を間近で拝見できるように、でございます。
……あと、サントハイムのために万が一のときには命に換えても姫様の命を尊ぶために」
「……好きにしなさいよ」
「もとよりそのつもりでございます」
私は拗ねる姫様の言葉をさらりと交わすと、ブライ様と最後の打ち合わせに入った。
問題の夜。月が明るく景色は鮮明に映し出されていた。
私はずきずきと痛む頭を抱えるように籠に乗せられた二人を追いかけた。
……村からは少し離れただろうか。
「…………!」
血の匂いがする。
あぁ、頭が痛い。
先に向かった二人が魔物と想定外に早く対峙しているということだろうか。
「……っ」
私は軽く舌打すると、こめかみを軽く叩くようにして頭痛を誤魔化し、
月夜の闇の中を疾走した。
赤。赤い。
血だ。血の色だ。
「姫様、ブライ様!」
茂みを掻き分けるようにして、躍り出た祭壇。
そこで見たのは赤。
大怪我をして倒れる姫様とブライ様。
「……」
私は魔物をそこで始めて睨みつけた。
そこにいたのは魔族の眷属と暴れ狛犬。暴れ狛犬の一頭はすでに息絶え、その辺りに転がっている。
ブライ様の氷の矢が口の中から後頭部に向け貫通していた。
「まだおったのか、人間め」
魔族が持っていた杖で威嚇するかのように大地を叩いた。
「!」
暴れ狛犬が唸り声を上げて私に飛び掛かった。
かろうじて避けたものの体を庇った左腕がその鋭い爪に切り裂かれ、血が噴出した。
「……っ」
血だ。
血の色だ。
-忌まわしい……-
忘れもしない過去。赤い鉄によって刻まれた死の呪文の伝承など。
そんなもの、思い出したくもない。
私は茨の鞭を夢中で振った。
ぎちぎちと音を立てて、びりびりと衝撃が手に伝わって。
四方に飛んだ液体が私の頬を汚した。温い感触に、冷静さを取り戻した。
「……血だ……」
私は呆然と呟いた。
足元にはひき肉となった暴れ狛犬の残骸が撒き散らされていた。
……気が付けば、頬のみならず、体中が返り血に染まっている。
「……」
私はゆっくりと視線を巡らせた。
「ば、ばかな…」
魔族が怯えながら後ずさりしている。
魔族とは人間に対して恐怖を与えるものだと思っていたが、彼らも人間に恐怖することがあるらしい。
しかし、何が恐ろしいのだろう。
逆に私は怖くない。私は今、全く恐怖を感じない。おかしいこともあるものだ。
それどころか、この魔族がちっぽけで醜悪で、みじめで弱々しいとしか感じない。
私は鞭を引きずるようにして、一歩、また一歩と魔族に近寄った。
「……み、見逃してくれ……」
「…………」
私は違和感を感じた。
なんだろうか、この気分は。姫様に怪我を負わせた者への怒りではない。
……強いてあげるとすれば“高揚感”。
「ひっ」
私は無表情に鞭を振った。
「………魔族の体内とは…どんな構造になっているのでしょうね?」
必死に這うようにして逃げる魔族の背に私はもう一度、鞭を叩き付けた。
深く切り裂かれた背からは肉片が飛び散り、背骨が露出する。
それでも、魔族は笛のように呼吸音をさせながら、私に懸命に命乞いを続けた。
命乞いをして生きてきた私が、他者の命を握っているというこの事実。
なんと因果なことだろう。
「……“我らが竜の神に忠誠を誓います。悔い改め下僕となります”と言えますか?」
「……っ」
魔族は必死に口を動かした。背中の負傷は肺に達しているらしい。
声にならずに血を吐き出した。
「もう一度、挑戦してごらんなさい」
「……っ」
懸命に命乞いをする魔族は血反吐を巻き散らかしながら、その汚らしい手で私の靴を縋るように掴んだ。
なんと必死なのだろう。やはり、我らが竜の神の敵、醜悪なことだ。
「そろそろ楽にして差し上げますよ」
私は剣を抜いて、死の恐怖に怯えた魔族の頭を頭蓋骨こと縦に割った。
「邪悪なる者に相応の報いを。これも神の御意思です」
なんと容易いのだろう。
気付けば、血の色にも何も臆する感情はなくなっていた。
私は倒れている姫様とブライ様に治癒の呪文をかけた。
「クリフト……」
私の腕の中で姫様がその瞳を開いた。
「助けてくれたの……?……ありがとう」
「いいえ。お二人が魔物を追い詰めてくださったので私一人でも対処が出来たのです」
私は微笑んだ。
「そっか」
姫様は戦いが無事に我々の勝利で終わったことに安堵したのかようやく私に笑顔を見せた。
私は始めて気が付いた。
「姫様の瞳は“赤”い色をなさっていらっしゃるのですね」
私は姫様の“血”の色をした瞳を真直ぐに見つめて、微かに笑った。
その夜、私は日記の最後にこう付け加えた。
“日常とは私が考えていたよりも、ずっと変化に富んでいる”と。
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(一週間七題:殺した火曜日)