『今在る全てを幻想と感じることがある→yes』
町中を照らし、青く浮かび上がらせる月夜。
もの思いを加速させる静寂に、私は随分と長い間思い出すことがなかった過去に思いを巡らせた。
私はサランの街から少し北上した山沿いの修道院に生まれた。
忌まわしくも鮮明な一番目の記憶は赤い光だ。
赤く焼けた鉄。赤い炎の光に照らし出された石の床。
私を床に押し付ける敵うはずもない大人の男達。
背中に焼き付けられる火傷の痛みに、泣くことしか出来なかった。
決して正統な教義にはないこの行事は、修道院では成人の義に行われるものだったようだ。
私の背に与えられた忌み嫌われる番号の意味は成長するとともに理解していった。
…私が望まれぬ存在であることを。
私は塔の狭い部屋に押し込められて育った。当番の水汲みなどの労働や食事の折に開錠され、
外に連れ出されたこともあったが、基本的に自由な行動は許されなかった。
当然、友人と呼べる人間もいない。
有り余る時間を共に過ごしたのは膨大な蔵書だけであった。
食事は一日に一回、少ないパンやスープが提供されるのみで、
自然と体を動かすことを拒否する生活に陥っていたということもあるが。
だから、喋ることよりも読み書きの方が圧倒的に経験として蓄積された。
そのために知識だけは誰にも負けなかった。
正直、私は本を読みすぎた。
本が嫌いになるほどに繰り返した日常の中、その多すぎる蔵書の中に一冊だけ、絵本があった。
悲しくも暖かい『シンデレラ』。
知名度だけは抜群の女の物語。
小汚く、継母や義姉に苛められる女が他力本願にも魔法使いや王子の力で姫になる結末を迎える。
私はそれを見て、この修道院だけが世界の全てではない、と知識の上で吸収した。
この世界には“町”があり、“城”があり、“身分”があり、“貧乏”と“金持ち”が存在すると。
私は狭いがらくた倉庫の如き屋根裏部屋で祈った。
『惨めな女の代表のような顔をしている灰かぶり姫。
本当の地獄を知らない贅沢者。
地獄でその罪により、業火に身を焦がして苦しむがいい』
ずっと軟禁生活であった私は人並みの常識の模範といえば、その絵本だけが頼りであった。
その絵本を見つけてからというもの、私は日に何回も読み直した。
読み飽きた分厚い図鑑や教養の書、語学や歴史の学術書。
少年だった私には、そのいずれのものよりもずっと魅力的だった。
あるとき、それを見ていて気が付いたことがある。
登場する王子の髪。
切りそろえられたその形と、鏡に映る私の髪を見比べてみた。
私は髪を切ったことがなかった。
床に届くほどに長い青い髪。手にとってみると、それは川で水を掬ったかのように流れた。
私はこの髪だけが、自分の容姿の中で悪くないと思えるパーツだった。
光に当たると輝くこの青い髪は唯一、薄汚いこの修道院の中で鮮やかに映え上がる色彩であったからだ。
そうか、と当時の私は納得した。
髪とは切るものなのだ。
考えてもみれば、時折、私を連れ出しに来る大人達は髪が短かった。
何時見ても同じ髪をしているのは、マメに切りそろえられているのだろう。
ならば。
と、私は部屋を見回した。
残念ながら、ハサミはおろか、刃物は厳重な注意の下に持ち込まれていないようだった。
私が自らを傷つけないように。もしくは、自分達が私に傷つけられないように。
絶望しきっていたそのときの私は残念に思う心も枯れ果てていたのかもしれない。
それを早々に諦めると、せめて、と絵本を綴じていた紐を抜き取った。
ページがばらばらと床に散らばるのを気にも留めずに、私はその紐で髪を肩の辺りで一つに結わえた。
…少しは普通の生活に近づいただろうか、と私は満足して鏡を見つめていた。
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(狂った七題:マッドサイエンティスト)