3.『……零れ落ちる』


 海の鳴く音。そして、洞窟の岩肌から滴る水滴が指先をつついた。
 意識が戻った時、体中が痛く、そして寒かった。
 私は恐る恐る目を開けた。
「ここは……」
 まず、私に主張してきたのは潮の香り。そして、視界に入ったのは濡れた岩肌と暗い海の波。
「私は……」
 私は少しでも体を動かすと、骨や肉が軋むように痛く、低く呻いた。
「!」
 帽子もどこかに失くしているし、衣類もあちこちが裂けて血が滲んでいる。そんな自分の様と、洞窟を吹き抜ける嵐の遠吠えが、思い出せと強要する。

 船が割れ、水底に沈んだ。
 仲間たちも共に引き込まれた。そして……、

 私は、
 姫様を、
 失った……?

「姫様が……いない……?」
 私は悪夢に違いない話を思わず声に出した。理解を超えている。そんなことがあるものか。
「目が覚めましたか?」
 私は掛けられた声の方向を見た。
「勇者様……!」
「気が付いてよかった」
 私が見た先で、勇者様が岩肌に背を預けるようにして座っていた。蒼白な顔をしている。
「勇者様……その……腕は……」
「ちょっと、挟んでしまいました」
 赤く染まった布地の中で力の抜けた右腕が重力に抗わず、地面に向かって垂れていた。
「すみません、ちょっと痛かったので、回復呪文を自分にも使っちゃって。クリフトさんを全快させてあげられませんでした」
 私は痛む体を引きずるようにして、なんとか勇者様の隣まで這うと彼の腕を診た。
「これは……」
 見た目は回復呪文で治ったように見えるが、腕が繋がっていること自体が奇跡だ。もう、二度と動くまい。手遅れのそれは、これ以上の奇跡は人の手では望めず、手の施しようがない。
「なぜ、こんなことに……」
「僕は皆を助けられなかったんです。せめて、近くに居たクリフトさんだけでも助けたいと思うことはおかしいですか?」
 その言葉に私は思い出した。
 姫様が炎に飲まれ、瞬きすら忘れた私の腕を取って脱出してくれた勇者様の行動を。
「そうでしたね…………。私達は、仇敵と戦う前に、負けて全て失ったんですね」
「まだ、僕とクリフトさんがいます」
 勇者様は私の力のない言葉にかぶせるようにして否定した。澄んだ声だった。
「まだ望みはあります」
「もう姫様もいらっしゃらないというのに私に希望を持てとおっしゃるのですか?」
 なぜ、私を助けた。私はその言葉を飲み込んだ。それ相応の代償を払ってまで行動した者に掛ける言葉ではないと思ったからだ。
 私は自嘲気味に目を伏せて苦笑した。船を失い、仲間たちは肉体ごと失った。還る器のない魂を呼び戻す手段があるのならば教えて欲しい。それとも、海底を探して回るつもりだろうか。
 諦めきって絶望した私は生きる目的も手段も思いつかなった。それに、私一人が残ってしまっても、復讐を目的にする気力も出ない。姫様がいない世界に何の意味も色もない。
「クリフトさんが望むようにできます。ただ、それまで少し休みたいです。付き合ってくれませんか?」
 私はその言葉に視線を落としたまま、額に手を当てて己に問いかけた。潮水に濡れた髪はべたついている。同時に潮水にひりつく身体中の傷は、海戦で敗れたことを思い出させる。胸が張り裂けそうとはこのことだ。
 何かの手段があるようには、とても思えなかった。だが。
(まだ、諦めるという結論を出すには早い。私のために二度と剣も持てなくなった勇者様に報いる恩義がある……そうでしょう……?)
 勇者様の言葉には私を安心させる不思議な説得力があった。私は勇者様と同じように岩肌を使って横に並んで座ろうと、体を動かして痛みに声が漏れた。
 なんとか横に並ぶように座ると、私は細く長く息を吐いた。
「……私の魔法力はホイミ残り2回分。私と貴方で1回ずつです」
「僕はいいですよ」
「いけません。1回ずつで申し訳ありません。借りを返すには足りませんが、これは勇者様を信じ、今後で返しますので、せめて1回は受け取ってください」
 私は頑固に断り、先に勇者様に初歩の回復呪文をかけた。万全の私ならばもっと善処できただろうことが口惜しい。
 勇者様の顔色が少しだけ良くなった気がする。私は内心ホッとした。
 勇者様が私をじっと見つめた。
「?」
「回復呪文って使い手の個性が出ますね。クリフトさんの回復呪文は、教会で見上げるステンドグラスみたいに静かだけど、鮮やか。そんな感じがします」
 ……。私は何を言われているかわからなくて少し思考停止していた。
「教会のような、と形容されるのであれば、今までの未熟な行いに恥じていた部分から、聖職者として少しは精進できたかと誇りに思えます。ありがとうございます」
 突然のお世辞に、私は精一杯の外交の言葉を捻りだした。
「ふっ、ははっ……」
 私の言葉に勇者様が噴出すようにして笑った。
「こんなときでも模範解答のようなお返事ですね。僕は真剣だったんですけど」
「……」
 私は勇者様の真意を掴みかねて黙って顔を見ていた。
 勇者様は、視線を合わせずに笑って私に言った。
「僕のことは名前でいいです。本音で話したい。ずっとそう思ってました。クリフトさん」
 世界を救うべく神に定めれた運命の子。一方、災いを背負ってきたとやっかみを受けてきた私。私は恐れ多いその名を口にすることを恐れていた。彼に改まって名前でと請われても、尚恐れ多い。
 だが。
 勇者様がどのような希望を持っているのかはわからないが、こんな時だから、心を許してみるのも悪くない。
 彼の笑い声に、私の緊張も少し解けた。
「わかりました。クリスレイドさん」



……零れ落ちていく……。
…………零れ落ちてしまう……。



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