5.『溢れ返る』


 少し眠ってしまったようだ。
 そういえば、体の痛みが少し引いて、濡れた服が乾いている。いつの間にか焚火が……。
 私は、もしかして、とクリスを見た。
「魔法力が少しだけ戻ったので、クリフトさんにホイミと、メラで火を起こしました」
 私はまだそこまで回復してはいない。
「流石、勇者ですね。ありがとうございます。おかげで風邪を引かずにすみました」
 クリスは洞穴の外の様子を慎重に伺っていた。荒れていた波は今も変わらずに、底知れぬ恐怖で迫っては戻っていく。
「もう掛けてあった破邪の呪文が効果を失う時間です。休憩時間が短くてごめんなさい」
「……そろそろ聞かせて頂きたいです。貴方の持っている希望とは何ですか?」
 私は遂に行動に移す時だと悟り、剣を持てぬ彼に変わるべく、自らの剣の様子を確認した。先ほどは癒しに徹していたため、刃こぼれもしていない。
 クリスは外の様子から目を離さずに答えた。
「やり直します」
「?」
 私は彼が何を言っているのか理解しかねた。
「……仲間たちは蘇生できません。再起は絶望的です。更に言えば、船もなくここからの脱出方法も探らねばなりません」
 私は彼がおかしくなってしまったのかと思い、忘れていたかった事実を敢えて口にした。
 クリスは振り向いて私に、砂の入った小瓶を見せた。丸みを帯びた小瓶の中に、不思議に光を反射する砂が入っている。
「これは、時の砂と呼ばれるものです」
「時の……?」
 私は鸚鵡返しに聞いた。そういえば、先日、滝の流れる洞窟で何かを得ていたような……。
「この砂を撒くと少しだけ時間を戻せます。やり直せます。皆が居たあの頃まで戻って」
「そんな……ことが……」
 本当に可能なのであれば。確かに彼の言ったように、私の望むようになる。私の心は跳ねた。不安で。
「しかし、本当にそんなことができると確信を持って良いのでしょうか……」
 勇者さんは私の不安を想像していたようで、動じずに力強い調子で頷いた。
「できます」
 私はその強い調子に押し黙った。
 …なぜ、クリスはそのような摂理を超越した奇跡としか思えない現象に、こんなにも確信を持っているのだろう。
 確かに、それが可能であれば最善だ。失った物を取り戻すことが出来る。こんなに望ましいことはない。 それに彼の腕も時間が戻れば、動かせる頃に戻る可能性がある。
 何より、一度は諦めたものだ。もし、やはりうまくいかなかったとしても現状と変わらないだけ。その時は私のために右腕を失った勇者の右腕となるだけのこと。駄目で元々だと思えば何を恐れることがあろうか。
 私は一歩踏み出した。
「片手ではやりにくいでしょう。私が引き受けます」
 その申し出にクリスは、一瞬迷った顔で視線を逸らした。言葉を選ぶような一瞬の間の後で、笑んだ。
「いえ、僕がやります」
 その様子と頑なな意思を感じ、私は疑念を口にした。
「私では何か不都合が?」
「…………」
 荒波の音だけが響いた。
「戻る前のことを覚えていられるのは、使った人だけです。戻っても僕がしっかりできなければまた同じことになる。だから、僕が使わなきゃいけない」
 クリスは決意の言葉とは裏腹に眉をしかめ、晴れない表情だった。そうか、そういうことか。貴方は、貴方だけが私の分も背負う覚悟をしているということか。
「私の方は忘れても良いということですね?」
 私はそんな彼の様子に、つい尖った言葉が口をついて出た。
 彼は少し眉を上げ、驚いた表情を見せた。
「私は貴方が本心を吐き出してくださって、ここで初めてようやく貴方を理解した気になった。同時に貴方を理解しようとせず、何も考えずに勇者として囃し立てていたことを恥じました。…………それも、また忘れてしまうのですね」
 戻ったら何も知らない私に戻り、また“勇者様”と持ち上げるだろう。
 何も知らずに、理解した私を知っている貴方を傷つけて。
 私は申し訳なさにやり切れず、肩を落とした。
 クリスはそんな私を励ますように無理に笑顔を作った。
「戻ったらアリーナもいます。貴方は元通りになるんです。僕は貴方のことを想っていますが、クリフトさんは忘れるから何も気にしないでいいです」
 私は手に持った剣に八つ当たりするように強く握った。
「また……私を追い詰めるようなことを言いますね……」
 なんて卑怯な勇者様だ。
 世界を救うことに興味がないどころか、今、この場の私に我儘を言う。
「大丈夫。クリフトさんは前を向いているから。“少しだけなら私を差し上げてもいい”なんて、そんな飾った言葉だけで十分です」
 私はため息をついた。
「ならば、お願いです。普段の私相手には難しいかもしれませんが、どうか私に同じように気が付かせてください。私がまたこのように貴方に会えるように」
「……そうですね……」
 クリスが何か物思いに耽るような目で視線を泳がせた瞬間だった。
 彼の背後の海面がはじけた。
 風圧で彼の森の色の髪が揺れ、弾けた水が周囲に当たり散らされた。
 全てがゆっくりと動き、静止したように見えた。
 私は咄嗟に駆け出し、彼の肩を掴んで洞穴の奥へと投げるように押しのけた。
「ぐっ……!!」
 あっという間だった。
 ドラゴンライダーの奇襲に、私は胴を袈裟切りにされ、視界は赤に染まった。
「クリフトさん!!」
 遠くでクリスの叫び声が聞こえた。
「戻るのなら今です!!」
 彼に答えるように、私は叫んだ。

 そうだ、溢れ出す。何かが血と共に溢れ出す。
  
 私はその場に膝をついた。
 ふと脳裏に彼の姿が浮かんだ。
 走馬灯は彼で回るのか。私はこの短時間での出来事が如何に印象的だったのかを他人事のように確認した。

──「“少しだけなら私を差し上げてもいい”なんて、そんな飾った言葉だけで十分です」──



 私は……、いつそれを言葉にした……?
 そうか、時を戻すことができると確信していたのは……。

 あぁ、溢れ返る。
 なんて酷い勇者様だ。こんな酷い勇者様相手では、心囚われても仕方ないじゃないか。
 だが、私は神の僕として彼に告げる。前に進むために彼に告げる。

「勇者様。貴方は……私をお忘れください」

 溢れ返る。輝く粒子が。
 まるで貴方の我儘の中にある、純真さの光のようですね。
 どうか、貴方の気の済むまで。



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