左手を頭に添えて支えると、クリフトはその柔らかい唇にそっと自分の唇を押し当てた。
 息を吹き込む。
 左手に当たるその緑のクセ毛がくすぐったい。
 何回か繰り返すとその瞼が上げられ、こほこほと咳込んだ。
「良かった。目が覚めたんですね」
 クリフトはほっとして、体を彼女から離した。
「う、ここは…」
 クリスは辺りを見回した。
 薄暗い洞窟の中には潮の香りが満ちている。 喋る声が何回も反響した。こんな洞窟に入った覚えがなくクリスは閉口して考えた。
 クリスが懸命に記憶を辿っているのでクリフトはその口を開いた。
「船から落ちてしまったんです。クリスは魔物と戦って、そのときに…」
 クリスは思い出したように目を見開いた。 そうだ。これからエルフの村へと向かおうと思って、航海を続けていた最中に 魔物と出会った。酷い嵐の中で、首長竜が船に突進した際に流れ込んできた波に流されてしまったのだ。
「クリフトさん。まさかあたしを助けるために海に飛び込んで…?」
「…貴女を失うわけにはいきませんからね」
 クリフトはよく見れば全身びしょ濡れのままだ。クリスの意識を戻すために、 自分のことなど全て後回しにして気付けをしてくれたのだろう。
「…ありがとう。じゃぁ、早くここを出てみんなと合流しましょう」
 クリスが立ち上がって、洞窟脱出の呪文を唱えようとするのをクリフトが止めた。
「…海は酷い嵐でした。そんな中に生身で出ていくのは自殺行為です。…探し出してもらえるまでか、嵐が治まるまで ここで待っていたほうが良いと思うのですが…」
 クリスは呪文詠唱のために掲げた腕を下ろした。
「確かに、そうね」
 そう言いながら、吹き込んできた風に濡れた体がぞくりと冷えた。 それはクリフトも同様で、思わず苦笑する。
「服を乾かさないと風邪を引いてしまいますね…」
 クリフトはあたりを見回して、僅かに打ち上げられている流木を集めるが、どれも湿ってしまっている。 僅かながらに集まった流木を相手にどうするべきか、考えているとクリスが離れるように促した。
「メラ!」
 湿った流木であったが、その火系攻撃魔法の力に煌々と燃え出した。
 クリスは成功したことに安堵して、鋼の鎧を脱ぐ。手袋とブーツを脱いだところで、クリフトの存在を改めて思い出して、 彼を見た。
 クリフトは上だけ脱いで海水を絞ると岩場に服を広げて置き、彼女に背を向けて座った。
 …決して見ない。そう言いたいのだろう。
 クリスは安心して自分も服を絞ると乾かすため、そして体を隠すようにその服を炎へと掲げた。
 手が熱い。だが、魔物が襲ってきたりでもしたら何も身につけるものがないまま戦うことになってしまう。 それだけは死んでも避けたい。だから、ずっと掲げ続けた。
「早く、皆と合流したいね」
「えぇ」
 クリフトも流石に気まずかった。どう返事したらよいのか迷ってしまい、言葉に詰まる。
「……」
「……」
「ねぇ、ずっと聞いてみたかったんだけど」
「何でしょうか?」
 クリスは服の乾き具合を指で触って確認しながら、尋ねた。
「…クリフトさんはどうして、いつもそんなに悲しそうな目をしているんですか?」
「え…」
 クリフトは思わず振り向きそうになって、慌てて下を向いた。
「そ、そんなつもりはありませんよ」
「そうかな?いつもすっごい悲しそうに見えるんです。アリーナさんといつも一緒だったから、聞けなかったんですけど」
 クリスはある程度乾いた服に妥協したように頷き、身に着けるとベルトを通した。 そしてクリフトのシャツを取ってくると、背を向けている彼の代わりに火に向ける。
「…悲しい、なんてことないですよ。私はいつでも幸せです」
「…自分のことを話すのは嫌いなのね」
 クリスはクリフトのシャツの乾き具合も自分のものと同じように確認する。…もう少しだ。
 クリフトは自嘲するように微かに笑った。
「そうでしょうね。苦手かもしれないです。…でも、あるとするならば、私は自分のことが嫌で仕方ないからなのでしょう」
「そっか」
 クリスはそれ以上追求しなかった。クリフトは渡されたシャツに袖を通すと、ようやく炎に向き直る。
 振り返った先には欠けてしまったエメラルド色のネイルを気にするクリスがいた。
「反対に私もお伺いしたいのです。…なぜ、クリスは魔物と戦うとき、あんなに暗い目をしているのですか?」
「……やっぱり、そんな感じだったんだ」
 クリスはクセ毛を触りながら、困ったように笑った。
「…なるべく、見せないように気をつけてたのに」
「……すみません」
「いいの。…実はあたしね、魔物に村を滅ぼされたんだ。あたしを育ててくれたお父さんもお母さんも、大好きな 村のみんなも。…親友もあたしの身代わりになって殺されちゃったんだ」
 クリスは静かに炎を見つめた。
「だから、憎くて仕方ないんです。…殺しても殺したりないの」
 そうか。クリフトは納得した。
 同じような影を持っているから、こんな話を今彼女とすることにも抵抗がないのか、と。 伝説の勇者と聞いて、彼は目的のために今まで協力してきた。しかし、今、改めて面と向かって話す彼女は ずっと普通の少女だった。
「…わかりますよ」
「…?」
「憎くて仕方ないものが心のどこかに巣食っている感覚は私にも覚えがあります」
 クリスが意外そうな顔を見せたが、すぐに困ったように顔を伏せて笑った。
「…じゃぁ、似たもの同志なのかな」
「…そうかもしれませんね」
 クリフトは立ち上がった。
「ところで、先程から気になっていたんです」
「うん。偶然ね、あたしもなの」
 クリスも立ち上がり、枝を何本か纏めてたいまつ代わりに持つと残りの炎を踏み消した。
「ここには、天空の兜と盾と同じ気配がします」
 クリスの言葉にクリフトも頷いた。
「えぇ、とても神聖な力を感じます」
 二人は洞窟の奥へと向かって進んだ。

 何体かの魔物に遭遇したが、二人は仲間の中でも最も攻守のバランスが取れている。 多少、手間を取るものの、特に窮地に陥ることなく進むことができた。
「更に奥にいけそう…」
 クリスが薄暗い洞窟の中、更に暗い奥地へと口を開ける大穴に気が付いて歩みを止めた。
「…行って見ますか?」
 クリフトの言葉にクリスは当然、と頷いた。
「それでは暗くて危ないので私が先に進みましょう」
 たいまつを受取り、先に進もうとするクリフトの服の裾をクリスが掴んだ。
「はぐれるといけないから掴んでてもいいですか?」
 クリフトは戸惑い、少し考えていたが諦めたように微笑んで、
「でしたら、歩きにくくて危ないのでこうしましょう」
無言でその手を取って握った。
 歩き出したものの、傾斜のついた暗い足場は多少滑る。
「…ここに足を置いてください」
 クリフトは足元を照らしながらクリスを誘導した。
「うん。ありがとう」

 そして開けた空洞に出た。
 そこには、
「鎧…。天空の鎧」
 白く輝く金属の鎧。銀や白金とも違う、存在しないはずの金属。 クリフトはその神聖さに十字を切った。
 定めを果たすための三つ目の鍵。クリスは駆け寄った。 急ぐかのように鎧に積もった塵や海草を払う。何の腐食もなく、鎧は輝きを増した。
 クリスはギラリとした瞳で、鎧を見つめた。
「これで、魔物を絶滅させてやれるわ…!」
 そんなクリスをクリフトは無言で見つめていた。




**********
 海は少しずつ落ち着きを取り戻していた。
 海上から仲間達は必死に目を凝らしてクリスとクリフトの姿を探していた。
「波が落ち着いてきた。すぐに見つかるはずだ」
 アリーナを励まそうとライアンが優しく語りかけた。
「そうよ。あの二人、一見頼りなく見えるけど、しっかりしてるものね!」
 マーニャもバシバシとアリーナの肩を叩いた。
 それまで無言で海面を凝視していたアリーナは振り返ると微笑んだ。 すっかり意気消沈しているとばかり思った彼女の意外な対応にライアンとマーニャは顔を見合わせた。
「大丈夫。クリフトは死なないわ。私は彼に死ぬな、と命令をしているんだもの。必ず、クリスを助けて無事でいるわ」
 アリーナの自信に満ちた言葉。
「見えました!あちらの方角です!」
 ミネアが水晶を片手に海上を指差した。
「よし、行きますよー!」
 トルネコが舵をとり、ミネアの占いの指し示す方へと向かった。


 嘘のようにすっかり晴れた空。
 再び肌を刺すような日差しが船を照らした。
「あ!あれそうじゃない!?」
 マーニャの指差す先の岩場にきらりと光を反射する白銀の鎧。
「なに、あの鎧!もしかして、災い転じて福となっちゃった!?」
 一目で神聖なものとわかるその鎧の輝きに仲間達は手を振って、無事を大いに喜んだ。
 岩場でも二人は船に気が付いたのか、大きく手を振っている。
 すぐに小船を下ろしてライアンが彼らの元へと向かった。

 戻ってきた小船から上がってくるクリスにマーニャは抱きついて喜んだ。 ブライはクリフトにどんな状況だったのかを聞きだしている。
 アリーナもクリフトに駆け寄った。
「怪我はない?」
「えぇ、ありません。だいじょうぶです」
「でも、疲れたでしょ。もう船室で休んでていいわ」
「恐れ入ります」
 畏まったクリフトと同じように船室に戻ろうとするクリスが彼に笑いかけた。
「本当にありがとう!」
 クリフトは何も答えずに微笑みながら、手を軽く上げ、 彼女が船室に戻っていくのを、見送ると、アリーナとブライに頭を下げた。
「それでは、失礼させていただきます」
「うん。ゆっくりと休んで…」
 アリーナはクリフトに手を振って、その背中を見守った。
 しかめられた顔で手を下ろす。
(…クリフトは私にあんな風に笑ってくれたことないのに)
 思い返されるクリフトの微笑み。いつも自分に向けられる整った笑みとは違う、 心を許した穏やかな笑顔。
(なんなのよ。クリフトは私のなのに)

「なーんか、怪しいわねー」
 愉快そうにそう笑うマーニャを横目で睨みつけるとアリーナは不貞腐れたように、見張り台へと上った。





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