目が覚めた。
ひどく重い頭と腕を動かしてみる。
目をこじ開けると見慣れない部屋だった。
ベッドから出るべく体を動かすと、その体はまるで自分のものではないかのようだった。
「私は…」
クリフトは重い頭を押さえた。
急激に蘇る記憶。慌てて服を捲って脇腹を確認した。
左のあばらの下あたりからへその上を通り越えて胴の三分の二を切り裂かれた後。
その白い傷痕は蘇ってきた記憶が間違いではないことを示している。
(よく助かったな)
自分でもそう思うほどだった。急所をうまく避けたのだろうか。幸運にも程がある。クリフトは戦慄して、ゆっくりと捲りあげた服を戻した。
窓から外を眺めて目に入ったのは何かの一部だった。
「?」
何が外にあるのかわからないクリフトは目を凝らした。それは木の幹に似ている。
(こんな巨大な木があるものか)
クリフトは尚も自分を疑って窓を開けて外を眺めた。
「そんなばかな…」
それは見間違いではなく、規格外に巨大な木であった。
ざわざわと音を鳴らしている枝葉はまるで空の全てを覆いつくすようで、それでいて優しく周囲に影を落としている。
小さなリスが幹を伝って降りてくると、木漏れ日の中で木の実を抱いてくつろぎだした。
「クリフトさん!目が覚めたんですね!」
トルネコの明るい声にクリフトは振り返った。
「体は大丈夫ですか?もう10日間も眠り続けていたんですよ!」
「そんなに…」
体が重いのはそのせいだろう。筋肉が衰えたのだ。
「ご心配おかけしました」
クリフトはトルネコに頭を下げると、急いで着替えて部屋を飛び出した。
宿の外に出るとこの村の住人達にクリフトは驚いて思わず足を止めた。
エルフやホビットだ。
人間など一人もいない。
ロザリーのいた村にも雰囲気が似ているが、ホビットがいくらか済んでいた村に比べて
住人が圧倒的に多い。彼らと敵対してはならない、とクリフトは緊張に背を硬くした。
「やはり驚きましたか?」
トルネコがそうクリフトに話かけた。
「ここは一体…?」
「この木。世界樹という神聖な木らしいんですよ。そして、この村にはエルフやホビットが住んでいて
この木と共に長い年月を共にしているらしいですね」
トルネコの話はわかるが、どうにも実感がわかない。
観察しながら歩いていくと、天に向かってそびえる大木の根の上に腰を下ろして
アリーナとクリス、ミネア、マーニャが話をしていた。
「あ、クリフト!目が覚めたのね!」
アリーナが目の端に涙を浮かべてクリフトに飛びつくように手を取った。その様子にクリスとマーニャ、ミネアは
一様に微笑ましく思って顔を見合わせた。
「姫様。心配をおかけして申し訳ございませんでした」
「本当よ…。生きていてくれて良かった」
「申し訳ございません」
クリフトはその言葉に苦笑した。
「今、相談をしていたんです。クリフトさんも加わりますか?」
クリスが少し腰を浮かせて、クリフトの座る場所を作った。体も重いので、素直にそこに座る。
「この木の上から声がするらしいんですよ」
「声ですか?」
「そうです。助けを求めているらしいんです」
ミネアが首をかしげて上を見上げた。
まさか。クリフトは嫌な予感に顔を強張らせた。ぞくりと、後頭部から血の気が引ける。
「助け、ですか?」
マーニャが困ったように手を振った。
「ミネアの占いにも、この木の上に何かあるっていうからねー」
クリフトは言葉を失った。
「で、助けに行こうと思うんですけど…。あたしと、身軽なアリーナさん。あとミネアさんで行こうかと思って」
「そうでしたか」
クリフトはその言葉にほっとした。
トルネコが冗談めかして笑った。
「確かに。わたしやライアンさんでは装備が重過ぎますし、ブライさんには堪えるでしょうからね」
「トルネコが重いのはお肉でしょうが」
マーニャが大声で笑う。
「じゃぁ、用意ができたら上ってみましょうか」
クリスがそう言って立ち上がると、トルネコに残金の額を確認している。この村にはエルフやホビットの使う
魔法の力の籠もった武具があるのだそうだ。それを物色してから準備を整えるのだろう。
二人がそう言って歩き出し、ミネアとマーニャも散歩に行こうと二人で歩き出した。
クリフトと二人残されたアリーナは口元に手を当て、もう一方の手を招くように振った。それは耳を貸せという意図であるとわかったクリフトは
素直に体を屈めた。アリーナはクリフトにそっと耳打ちした。
「今の内に二人で行きましょうよ」
「………え…」
クリフトは眉をぴくりと動かした。言葉だけで反応して心臓が早鐘のように打ち鳴らされ痛む。
「……そ、それは…」
アリーナは体を起すと嬉しそうに体を回して目を輝かせた。
「私、木登り大好きなの!小さい頃から冒険に憧れていたけど、クリフトと二人で出かける機会なんて
今までほとんどなかったじゃない?だから、いっしょに行きたいの」
クリフトは震えた唇が見えないように左手で隠して僅かに顔を傾けた。
「……しかし、今、クリス達が相談して決めたでは…ありませんか」
「だから、今の内にそっと行っちゃいましょうよ」
アリーナは無邪気にクリフトの腕を取った。
「…しかし…私は…まだ体が…」
しどろもどろと言い訳を探す。
「ねぇ、二人だけで行きたいの!」
クリフトはそれでも尚、首を縦には振らなかった。
「…やはり、私は…」
珍しく煮え切らないクリフトの態度にアリーナは眉間に力を入れてクリフトを睨んだ。
「じゃぁ、やっぱりクリフトは私よりクリスの方が大切なの!?」
「…え、それは…?」
思わぬ口撃に言葉を失う。クリスとアリーナを秤にかけるなど考えたこともなかった。
少なくともアリーナ以上に大切に考えている人物もいないというのに。
「クリフトのバカ!」
「……っ」
クリフトは走って去ろうと腕を解いたアリーナの腕を強引に捉えた。
すぅっと深呼吸する。
「……ご一緒いたします」
クリフトのため息をつくような呟きにアリーナは目を輝かせて頷いた。
「…一度、宿に戻って…剣を取ってきます」
そう言って一人宿に戻ったクリフトは誰にも見つからないことを確認して、流し台で胃液を戻した。
ずっと寝たきりであったから、ということ以上に重い足取りでアリーナの下へと戻った。
しばらく寝ていたからといって、たかが木登りくらいの運動が出来ないほどに彼は弱いわけではない。
彼は音が聞こえてきそうな程に血の気の引いていく後頭部を押さえた。情けない話だが瞼が震える。
先程の場所で待っていたアリーナは早速、木の中へと入られそうな巨大な節穴を見つけたらしく、その前で手を振っている。
「さぁ、行きましょ!」
「……っ」
やはり上るのだ。また胃が痛んだ。酸っぱい何かがこみ上げるが、もう吐き出すものも残っていない。
満足に空気も受け付けない肺を無理やり動かして、クリフトは深呼吸した。
中に入ってみるとそこは薄暗かった。木の匂いが懐かしい気もするが、そんなことは彼は気にならなかった。
「昔はよく木登りしたわ。なんだか、懐かしくなっちゃう」
アリーナは身軽にすいすいと足場を見つけては進んでいく。
「…えぇ」
アリーナが何を言っているのかクリフトは正直、耳に入れていなかったがそれでもなんとか二つ返事で頷いた。
アリーナが上っていくさきに緑の光を見つけて這い出した。そこは太い枝の上。
まるで絨毯のように敷き詰められた枝はしっかりとアリーナの体重を支えた。
「すごーい!雲の上にいるみたいだわ!」
アリーナははしゃいだ様子でクリフトに手を貸して枝の上に連れ出した。
「…」
いつの間にこんなに上ったのか。
遥か下方の村では人が蟻ほどの小ささにも満たない。上空の風がびゅうびゅうと耳元で唸りを上げた。
アリーナは枝の上に登ったり、飛びついたり、まるで子供が遊具で遊ぶかのようにその超空に夢中になっているのを
クリフトは呆然と見つめていた。何かをしきりに話しかけているのにも答えられないほどに。
似ていた。
この遥か大空の景色も。肌を刺すような風の唸りも。
全てが似ていた。
クリフトはいつ、自分が気絶したのかも気が付かなかった。
アリーナはクリフトの腕を掴んだ。
「クリフト、どうしたの!?」
必死に呼びかけるが、全く目を覚ます気配もない。力の抜けた人の体はなんと重いことか。
木の枝の下にぶら下がるクリフトの体を支えて、アリーナは歯を食いしばった。
「!」
アリーナの体を支えていた木の枝の皮がむけてずるりと滑った。
枝から落ちたアリーナはクリフトを庇って抱きしめた。
どすり、と下方の枝に引っかかる。
助かった、とアリーナはほっと胸を撫で下ろした。
「あんたは本当に何をやっているの!?」
マーニャは大声でアリーナを怒鳴りつけた。クリスとブライが後ろでおろおろと二人を見ている。
クリフトは隣の部屋で再び眠っている。
「クリフトがどんだけ大怪我して目が覚めたばっかりだと思っているの!?」
「…ごめんなさい」
アリーナは下を向いてスカートの裾をぎゅっと握った。昔から、お説教されても反省していないときに見せる彼女の癖だ。
マーニャはそんな苛立った様子を目ざとく見つけて、また怒鳴った。
「大体、何だって先走ったりしたのよ!クリスは後でって手筈を整えてたじゃない!」
「だって。二人で行きたかったから」
救いようのないその言い訳に心配そうに見守っていたクリスも呆れた様子で目を細めてアリーナを見据えた。
パンっと高い音をさせて、マーニャはアリーナの頬を叩いた。
「バカじゃないの!あんた、それでクリフトを殺す気!?」
「…そんなんじゃないわよ…」
アリーナは赤くなった頬を押さえて、目に涙を滲ませると悔しそうに歯を食いしばった。
「何が違うのよ!?アッテムトでクリフトが死に掛けたのも元はといえばあんたが原因じゃないの!」
「!」
「今回もそうよ。大体死に掛けたばっかりで10日も寝てた人間があんな木登りなんて出来るわけがないじゃない!」
マーニャは畳み掛けるように叫んだ。
「あんたなんかの言うこと聞かされてたら、クリフトだっていくつ命があっても足りないわよ!可哀想ね!あんたなんかの家臣になったばっかりに!」
「わ、私…」
「それにクリスの偽者が出たりして慌しいときにこれ以上迷惑をかけないでくれる!?」
「マーニャさん!…言いすぎです」
クリスの制止にようやくマーニャはぐっと言葉を飲み込んだ。
拳を震わせるアリーナはぽたりと涙を落とした。
「クリフトを殺すところだったの…?」
クリスはマーニャとブライに部屋を出るように合図した。
「アリーナさん。少し一人になって考えてくださいね」
ぱたりとドアが閉められた。
「…っ。私…」
アリーナは突然静かになってしまった部屋で一人で呟いた。
つまらない嫉妬だった。クリスに笑顔を向けるのが許せなかった。
だから、自分にだけ笑いかけて欲しかった。自分の物だということを確認したかった。ただそれだけだった。
コンコン。とドアが鳴った。
「…姫様?」
クリフトの声だ。今の騒ぎで目が覚めたのだろうか。アリーナは慌ててゴシゴシと目をこすった。
ドアは開かずに前に立つと向こうのクリフトに話しかけた。
「クリフト…。ごめんね。私がずっと貴方を苦しめていたのね」
ドアの向こうの声が戸惑っているのか、返事をしない。
「私について来たばっかりに。貴方を危険な目にばかり遭わせていて…」
ダンっとドアを叩くような音にアリーナは身を震わせて驚いて目を見開いた。
「……姫様。私こそ、私こそ、ずっと貴女様のお役に立てずに足を引っ張るばかりで…!!」
情けなく気絶して、アリーナに迷惑をかけた。彼は自らを責めるかのように拳を握り締める。
アリーナはこんなに取り乱して声を上げるクリフトを知らなかった。
ずっと、クリフトはがむしゃらに尽くしてきてくれたのだ。それが分かっただけでもアリーナは嬉しかった。
最後の最後に。クリフトを諦める理由になった。
アリーナはドアを開けた。
「姫様…!」
ドアの向こうにいたクリフトは目が赤かった。それを見て、止め処なく涙が零れた。
クリフトをこれ以上苦しめないために。クリフトに生きてもらうために。
「クリフト。只今をもって、貴方は自由です。もう、私の命令に縛られることはないわ」
「………どういうことですか!?」
クリフトは一歩、後ろによろめくように後ずさった。
アリーナは引きつりながらも決死の覚悟で口角を上げた。
「貴方はもう、私から離れて自由に生きて」
それだけ伝えるとアリーナはバタリと扉を閉めた。
「……私は……」
微かに甲高い、耳鳴りがする。
急に周囲の音が聞こえなくなった。
急に周囲の風景がただの純白に包まれた。
頭が割れる。強く抑えるように頭を抱えた。
-クリフト-
誰かの声が聞こえてクリフトは目を開いた。そこにあるのは-。
墓。
テンペで祈りを捧げた娘達の質素な墓。
無念の魂が唸りを上げる風。
一面の墓。
アッテムトで見た墓。
鴉が叫ぶ黄昏の墓地。
荒らしつくされたサントハイム王家の墓。
自分を責める王妃の声。
サランの街の大聖堂の裏。
雨に濡れたニックの墓。
墓。
吊るされた少年。
倒れている少年。
そして、自分は。
「ああああああ!」
胸を突き刺す罪の意識に打ち震えて彼は叫んだ。
墓。
胸の内の罪悪を糾弾する禁呪の幻影。
それらからかろうじて心を守ってきたただ一つの拠り所。
幻影の墓の中心に現われた彼女は笑顔で言った。
-貴方はもう私から離れて生きて-
「嫌です!」
どうか、見捨てないで。
クリフトは彼女に縋ろうと足を踏み出した。しかし、その足は何かに捉まれてまったく動かすことが出来ない。
焦ったように下を見る。
亡者の腕が土の中から這い出し膝までを抱え込んでいる。小さな少年の腕。知っている。この腕は…。
「っ!!」
クリフトは引きつった青い顔で声にならない悲鳴を上げた。
助けを求めるように彼女を見る。
彼女は暖かい微笑みを浮かべて自分を見つめている。
届かないと分かっていながら腕を伸ばす先で、彼女も大地から這い出した亡者の腕に囚われた。
「!」
彼女の腕が引きちぎられて、首がごきりと音を立てて回った。
「ああ…」
クリフトが震える腕を必死で伸ばしても彼女には届かない。
引き千切れ落ちた彼女の頭がクリフトと視線を交わす。
首がにやりと笑った。
-苦しいなら、壊れてしまえばいいのよ-
いつの間にそこまで走ったのだろうか。彼は村から少し離れた砂漠の中にいた。
クリフトは荒い息で膝をついた。びしゃりと水音がした。その赤い水は魔物の体液に他ならなかった。
「……」
手に持っていた剣は元の銀色の光すら見えぬほどに血油に汚れていた。そして、彼の姿も血の色をした化け物であるかのように。
目の前の魔物の死体に何度も剣を突き立てた。力の入った体から血が噴出す。
そのまま、クリフトは血の海に倒れこんだ。
砂を踏みしめる音がした。
“彼女”は冷たくクリフトを見下ろした。
光の無い瞳で見つめ返すクリフト。おそらく音に反応しただけで、“彼女”は見えていないのだろう。
「…海へ還る…罪…」
そう呟いた彼を、クリスと同じ姿をした魔物は鼻で笑って嘲笑した。
「無様ですね」
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