今日も年上の生徒の集まる教室にクリフトはいた。
会話の内容もなかなか合わなず、浮いていたが彼は気にしていなかった。
気にする余裕もなく必死に勉強するクリフトの姿は周りの生徒からも異質に映る。
彼の成績にプライドを傷つけられ、言いがかりをつけてきた生徒ももうとっくに諦め彼に近づきもしなくなっていた。
本日最後の時間の科目は神聖呪文理論だ。神聖呪文の成り立ちと呪文の体系を理論で習う授業。
在学中の生徒にはせいぜいホイミを覚えるのが精一杯だが、この授業ではもっと高位の呪文の存在と構造を習う。
修行と徳を積めばいずれ修得できるだろう。クリフトはこの授業が好きだった。
ニックのクラスではまだ始まっていないが、きっと彼が苦手とするタイプの内容である。
そういえば、とクリフトはニックが出かけ先から帰ってきたら、教える教科を考えた。
きっと、神聖語学と宗教史。このあたりだろう。よく、ニックは“人の名前で何世だったかすぐに忘れてしまう”と言っていたのを
思い出して、クリフトは思わずくすりと笑った。
部屋に戻るとクリフトは早速、以前にメモを取った紙を探した。紙は高価である。クリフトやニックはあまり授業の内容を
書き残しておくことができない。おかげで効率的にメモを残す術を覚えた。一方、ニックはほとんど自分で書き残すことをしていないのでクリフトのメモをいつも
感謝して借りることが多かった。見つけ出したそれらをいつでも渡せるように机の上に用意しておく。
今日もニックの部屋からは何の物音もしない。いつ帰ってくるのだろうか。
(今日で4日目だけど、学校休んでどこに行ってるんだろう?)
ニックは過去にも何回か学校を休んで出かけることがあったが、それでもせいぜい2日かそこら。こんなに長く居ないのは今まで彼が知る範囲では
なかった。クリフトには確信があった。何しろ、古い造りの宿舎なので、廊下を歩くと床鳴りの音は響く上に、部屋の窓を開け閉めする音もわかる。
隣人の行動など筒抜けだ。
ただでさえ成績の良くない彼の進学を本気で心配してしまう。
(遊びに行っているとか、いけないことではないと思うけど)
そんな背徳的な行為をするほど、彼は不真面目ではない。
(まさか、何か事故にあったなんてことは…)
嫌な予感が彼の脳裏を過ぎる。どきりとした彼の耳に静けさのあまり耳鳴りが響いた。
頭を押さえて不安な心を押さえる。頭痛がした。
そうそくの炎がゆらめく。
窓が開いていた。彼は肌寒い風が入るようになったのを感じて、窓を閉める。日が長くなったのを実感した。
床鳴りの音が響いた。
ニックが戻ったのかと、彼は思ったが数人の足音がまるで走っているかのように早く激しく鳴り続ける。
何かあったに違いない。
嫌な予感を告げる頭痛は一層ひどくなった。
「ニック!ニック!いますか?!」
何度もドアを叩く音がする。クリフトは部屋の外へと向かった。
「あの、ニックなら数日前から外出しています」
シスターと教師、管理人がいた。
「いいえ、管理人さんの出入記録では昨日の昼頃に戻ってきているはずです」
その言葉に管理人は同意した。
「それなのに、授業にも出てないなんてどこか具合でも悪いのかと…」
目がねの若い男の教師が心配そうにニックの部屋のドアを見つめる。
……昨日から、戻ってきていた……?
(そんな馬鹿な、部屋からは何の音も気配もなかった)
頭痛は治まらない。眩暈がする。
「……何かの……間違いでは…?」
そんなクリフトの期待を裏切るように管理人は言った。
「いや、俺は見たんだ。それで、早く授業に行けよって話もして…」
管理人も混乱しているようだ。熊の様にでかい体を縮めて冷や汗を拭う。
「ニック!ニック!部屋に居るのか!?」
クリフトは不安を払うように乱暴にドアをノックした。
いつも冷静な彼の様子に大人たちの間の緊張も高まる。
「合鍵を…!」
シスターに言われると管理人は慌てて鍵を取り出す。その鍵を奪うようにクリフトはひったくると壊れるぐらいに強くドアを開け放った。
強い異臭がした。シスターが目を背ける。
ニックはいた。
薄暗くなってきた部屋に浮いた足が照らし出されている。
「ニック!!!!」
大人たちはこんなに狼狽したクリフトを見たことはなかった。
机の上のペーパーナイフを握り、天井の木材を支点にしたロープの先、窓枠に縛り付けられた結び目の前を一撃切りつける。
どさり、と彼の体が落ちた。重い人形のようだった。
「ニック!どうして!?」
クリフトは息を吹き返さないかと彼の肩を強くゆする。しかし、時間が経ち固まった彼の体は揺れるだけだった。
「ニック!!」
彼の顔は青く鬱血し、得体の知れない体液を吐き出している。見るに耐えない無残な様子だった。更に青い顔になった教師は
立ち込める異臭に窓を開けた。
管理人はその図体に似合わず気が小さいようでドアの前に立ち尽くすだけだった。
「クリフト!おやめなさい!」
一心不乱に彼を呼び続けるクリフトをシスターが押さえつけ、引き剥がそうとするものの離れてはくれない。
「シスター、彼を助けてください!!」
修行を積んだ聖職者が扱える蘇生呪文のことだ。シスターは静かに首を振った。
「完全に魂が離れてしまっては効果がありません。それに自ら命を絶ったものには救いはありません」
「うそだ!!ニックがそんなこと!」
クリフトは喚いた。教師が慌てて呪文を詠唱する。
強烈な睡魔がクリフトを襲った。ラリホーマだ。
意識を失ったクリフトを抱えると管理人に部屋に寝かすように指示をした。
制服もそのままに寝かされていたクリフトが目を覚ましたのは空が青白い色をした頃だった。鶏の声が朝を告げている。
自分は今までどうしていたのか。利きすぎた強力な催眠呪文でぼんやりとした頭で彼はどこかを見ていた。
クリフトは懸命に自分の記憶を探る。はっと、目を見開く。
(…ニック!)
クリフトは慌てて飛び起きると隣の部屋へと向かった。
鍵のかかっていないドアをあけるとそこには何もなかった。そう、ニック自身もベッドも机も何も無くなっていた。
足元を見ると聖水のビンと撒かれた水の跡がある。クリフトはよろめいた。
全て夢であったらよかったのに。
「ニック、どうしてこんな恐ろしいことを…」
彼はずっと、殺すことなかれと教えられてきた。それにはもちろん自分の命だって含まれる。
神から与えられた無二の生命を殺すことは重大な罪だ。ニックだって、それは同じだったはずだ。それでもなお、彼が罪を犯したことを
クリフトは理解できなかった。
もし、昨日のアレがニックじゃなかったら。
そんな現実逃避めいた考えを真剣に彼は考える。それくらいに昨日見た顔は歪んでいた。
(そうだ。管理人の言う出入記録。それが間違いだったなら)
クリフトは管理人室に向かった。管理人も慌てていたのだろう。鍵がかかっていなかった。
クリフトは音を立てないように注意して中に忍び込むと問題の記録を探した。
クリフトもよく記入する黒いカバーのかかったものだ。
それはすぐに見つかった。外を出入りする人間と会話するための窓机。そこに置かれている。
クリフトはページを捲った。最新のページを探す。
暗号のように汚い見慣れた字。それは騒動の前の日に確かにあった。
動かない証拠を前に彼が二度と帰ってこない事実が胸に突き刺さる。
涙が止まらない。恐ろしい。恐ろしい。
(そうだ、一体どこへ出かけていたんだ?)
クリフトは必死に涙を拭い、彼の外出記録を探す。
(レジル卿邸…)
聞き覚えがある名前だった。ニックが彼のことを話していなかったか必死に考える。
「!」
物音がした。管理人が起きたのだろうか。クリフトはその名前をもう一度みて記憶すると、慌てて外へと抜け出した。
学校にはいたくない。
そう思ったクリフトはサランの町を歩いていた。
まだ、日が昇らない町では人も少なく、野菜などの商品を運ぶ商人が見えただけだった。
歩いていると目が冴える。頭の周りも良くなる。彼は思い出した。
昔、貴族の子供達がニックに飛ばしていた野次。あのときは意味がわからずに忘れていた。
“変態子爵のレジル”
(ああ、そうだったのか)
クリフトは嘆いた。
修道院は自由に出ることは許されない。神学校に通うのだってもちろん資金が必要だ。クリフトの学費は大司教が工面してくれたが、
彼はその子爵が出したのだろう。
少年趣味の変態子爵。テンペ地方に邸宅を構える有名な悪趣味な男。ニックのいた修道院もテンペ地方だった。
彼を寄付と引き換えに差し出したのだろう。修道院は知ってか知らずか、クリフトにはわからない。
もし、知らないとしたらなんと残酷な話だろうか。
彼が絶望するような大罪が行われていたのだろうことに考えが行き着く。
(騎士団に入りたかった理由は…)
(そこから、逃げ出したかったのか)
世界中を回って、人から尊敬される騎士達。彼にとってはどんなに思い焦がれるような生活だっただろうか。
(汚い)
クリフトは悲嘆にくれた。
(醜い)
どうして、人間とはこんなに醜いのか。
そして、どうして、今まで自分は何も気が付かなかったのか。
歩き続けるうちに町には人も増えだした。彼は人ごみに肩が当たることも気にせず、無心にある場所を目指した。
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