『努力』



 人とはなんと醜いものか。
 身分と金にこだわり、弱者を嬲る。そして、彼の苦悩に気がつけなかった自分自身も彼を追い詰めていた。 どうして、あの優しいニックが死を選び、こんな弱く何もできない自分が生きているのか。 何の目的も価値もない自分がなぜ、生き続けなければならないのか。
 クリフトが悲嘆に暮れて門をくぐったのは、サラン大聖堂であった。白と青を基本色とする、世界でも有数の大聖堂。 いつもならば、清潔感と高潔さを感じさせるというのに今日はとても冷たく感じた。
 本当ならば、一人前になるまでここには戻らないとかつての少年は心に決めていた。 それでも、ここに来てしまったのは彼なら自分を導いてくれる。そう期待してのことだった。
「おまえ、クリフト!?どうしたんだい、お入りなさい」
 小さい頃に彼を風呂にも入れたこともある太った女性は憔悴した彼が戻ってきたことに驚きを隠せないようだった。 彼を迎え入れると、どうしたのか問いただすが、クリフトは何も答えなかった。
 困り果てた彼女の表情。
(皆を困らせて私は何をしているんだ)
 おそらく今頃学校でも起床時間になり、クリフトがいないことに気が付いているだろう。 深い罪悪感に苛まれる。

「クリフト、よく帰ったね」
 床を睨む彼を迎えたのは祭壇の上の大司教の声だった。多くの飾りがついた高位の聖職者の法衣。小さい頃から憧れた大司教の姿。
「大司教様…」
 遠方からも信者がやってくる高名な聖職者。人を愛する笑顔。 祭壇の上からのその言葉は代弁者のごとく神聖なものだが、この日のクリフトは距離感を感じずにはいられなかった。

「大司教様、どうして人は罪を犯すのですか?」
「人は罪を犯すもの。神は人を自由な生き物として作られた。だから、人は罪を犯し、贖罪し生きるんだよ」
「大司教様、私は彼らを赦すことなんてとてもできません」
「人を憎んでしまうのは仕方のないことだが、罪を裁くのは人ではない。心穏やかに過ごしなさい」
「なぜ、こんなに空しいのでしょうか?」
 クリフトは落胆した。
「それはお前がなぜ生きるのか分かっていないからだよ」
 クリフトは首を振って苦笑した。ああ、お決まりの返答。
「…なぜ、私を拾い育てたのですか?」
「誰にでも平等に与えられた命を生きる権利があるからだ。その後の道を決めるのはお前自身だよ、クリフト」

「そんな教義のお言葉を頂きにきたのではありません!」

 静まり返った聖堂内にクリフトの悲鳴にも似た叫びが響き渡った。
「どうか、“貴方”自身のお言葉をください!」
 聴き慣れた聖書の教えではなく、自分だけを救ってくれる救済の言葉を。
「それとも、貴方は私を愛してくれていたのではなかったのですか!?」
 大司教は無言で表情も変えずに彼の心の叫びに耳を傾ける。
「それとも貴方は徳を積むために、ご自分のために私を拾われたのですか!?」
 クリフトは大司教の返事を待たずに顔を覆う。
「そんな理由だったなら、私なんか捨て置いてくれればよかったのに!」
「クリフト、お前なんてこというんだい!」
 ずっとそばで傍観していた女性が抗議の声を上げる。彼女を大司教は手で制した。 こんな状況であっても大司教の笑顔は変わらない。

「私はいつの日か、お前がこうして私に相談しに来るだろうと思っていたよ」
 クリフトは顔を覆う手をそのままに膝をついた。
「私は以前に、人を愛しなさい、と教えたね? でも、私は人を罪を犯す弱い生き物だと教えずにお前を学校へと送り出した。 お前が見聞きして学んだこと、私は嬉しく思う。 もしそれで、私がお前を愛していないと思うのなら、それで構わない。 すべて自分で決断しなさい。そうして、苦しんで生きていくのが人間なんだよ、クリフト」
「……私にはわかりません」
 クリフトは涙して言葉を願った。
「たった一言でいいのです。どうか、私に救いをください。どうしてこんなに苦しいのでしょうか?」
 大司教はゆっくりとかぶりを振った。
「学びなさいクリフト、そして自分で悟りなさい。人とはどんなものか。何のためにお前が生きるのか」
 いつの間にか祭壇から降りてきていた大司教は彼の横に立った。
「貴方はひどい方です」
「そうかもしれん」
「結局、私には救いをくださらない」
「私にできることは十分にした」
 大司教は無言で傍に立ち続けた。

「大司教様!王妃様が先ほど、お倒れに!意識が戻らず危険な状態に!」
 静寂を打ち壊し、大聖堂にとびこんできたのは、サントハイム神官の緑の制服の若者だった。
 誰もがその驚愕の知らせに耳を疑った。クリフトもそうだった。
「おお、なんということ。すぐに回復を祈る儀礼を!」
 彼の登場を機に大聖堂内は騒然となった。クリフトはふらふらと歩き出すと端に座り込み、神に願う。

(ああ、この悪い夢から早く目が覚めますように。どうか、全ての悪夢からお救いください)





(お願いします。私のことを愛してくれたかけがえのない方をどうかこれ以上奪わないでください)








 いつまでそうしていただろうか。大聖堂での儀式は延々と続いている。城から何かしらの知らせがあるまで、続くだろう。
(姫様…)
 彼はアリーナのことを思い出した。彼女はきっと自分以上に動揺しているだろう。 彼は今の今までそんなことにも気が付かなかった自分を恥じた。
 彼はすっかり固まっていた足がもつれるのもかまわず、涙も拭わずアリーナの下へと走った。

 サランへの街道は城へと向かう馬車や馬、城からどこかへと向かう馬や人、いつも以上の人で溢れていた。
夢中で走る彼に馬の跳ねた小石が跳んだ。額に当たったそれを無視して走る。
「…っ」
 いつの間にか流れ出した血液が目に入る。邪魔だ。その血を袖で乱暴に拭うと傷口に手を当てる。
「神よ、傷つき倒れる者にご加護を…」
 ホイミ。
 覚えたてで未熟な呪文では完全に傷はふさがらなかった。それでも、流れ出した血が再び 彼の視界を遮らないのならばそれで十分だった。


 城の門をくぐる。血と土と涙に汚れた彼の姿を見て、誰しもが驚いた。メイドは持っていたお盆を落とし、 兵士は声をかけようとするが、かける間もなく彼は走り抜ける。
 遊び部屋にいない。
 クリフトはあたりを見回し焦った。そこに現れたのはブライだった。
「ばかもの、もっと早く来ないか。姫様は謁見の間の上階のご自分のお部屋にいらっしゃる」
「はい!」
 走り抜けるクリフトを見てブライは姫の部屋に行くのを止めた。クリフトが来なければ自分でアリーナの様子を見に行こうと思っていた。
 ずっと、王妃が認めていた少年。彼にしかアリーナを任せられないという確信からだった。
「どうか、姫様を頼む…」
 王妃の容態は悪化の一途をたどっているらしい。長年、この城に仕えてきた老魔法使いは不憫な姫のことを思うとやりきれなかった。


「姫様!」
 クリフトはアリーナの自室に飛び込むようにして入った。 夢中で走ってきたので、それまでどうやってここまで来たのかは覚えていない。 クリフトはアリーナの自室に入ったことはないので、誰かがここへと導いてくれたのだろう。彼はそう思った。
 アリーナは泣いていなかった。
「クリフト…。お母様が、急に倒れたの」
 泣いているとばかり思っていたクリフトはその様子に呆然とした。
「私が…お転婆ばっかりして心配かけちゃったからかなぁ」
「そんなことはありません」
 クリフトはアリーナに優しく、しかしきっぱりと否定した。まるで、自分に言い聞かせるように。
「どうしたら、お母様はよくなるのかしら?」
 クリフトはアリーナの手を取った。
「祈りましょう。きっと、お城の神官さんたちや町の偉いお医者様が助けてくださいます」
「うん」
 二人は必死に祈った。



 それでも、その晩、王妃は息を引き取った。
 その知らせを聞いて、最初に泣いたのはクリフトの方だった。

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