『旅立』




 サントハイムの城中に激震が走った。
 木々から驚いて鳥達が飛び出し、兵士が武器を取って待機する。
 そして、国王は上の階からの振動に降ってきた塵を見てコメカミを押さえて嘆いた。
「…またか…。今度は一体何事だ…」
「随分な物音でしたからな」
 大臣もため息をついた。何しろ、今までで一番の騒音だ。
「陛下!今の物音は何事ですか、モンスターの急襲では!お怪我は…?」
 勢いよく飛び込んできた近衛兵も王と大臣の様子を見て程なく悟る。
「…姫様ですか…」
 がっくりと肩を落とした後に手をひらひらと振りながら大臣がぽつりと言った。
「クリフトを呼べ」
 クリフトは今年で18歳になる神官である。若くして将来を期待された彼は城の神官達の中でも、 姫の幼馴染という特殊な生い立ちから、サントハイム城の貴重な古代の蔵書の管理と姫の側仕え教育係の仕事を任されている。 もちろん蔵書の管理が主だった仕事の筈なのだが、アリーナのあまりのお転婆ぶりに一日の殆どをそちらに費やすことになってしまっている。 クリフトと共に資料を任されている先輩神官は増える仕事量に人事の変更を願い出ているくらいだ。
「すぐに呼んで参ります!」
 兵士はすぐに彼の元へと走った。何しろ、アリーナはクリフトの言うことは誰の言葉よりもよく聞く。

 緑の制服に身を包んだ神官、クリフトは慣れたことだったのかすぐに現れた。
「クリフト。またアリーナが何か気にくわないらしい。頼むぞ」
「承知いたしました」
 礼儀正しく畏まるクリフトは城仕えもしっかり板についた立派な神官になりつつあった。 その神官らしい神聖さと作法の美しさ、どれを取っても一人前である。 伸びた身長と細い肢体。城中の女性からも憧れる存在となっていた。 そんな状態を彼は過去の扱いと比べてしまうのかいつも自嘲的に笑うだけだったが。

 アリーナの部屋の前でうろうろとしていた若い侍女も彼に憧れている女性達の中の一人で、 彼の姿を見つけると、恥ずかしそうに目線をずらしながら、彼をアリーナの部屋のドアへと促した。
 クリフトはゆっくりとアリーナの自室のドアをノックした。
「姫様、いらっしゃいますか?」
 彼の隣では侍女がかつてない物音におどおどと立っている。 部屋の主は声で誰かすぐにわかったのか素直にドアが少しだけ開いた。 アリーナがドアのすき間から苦笑いしながら、クリフトと向き合う。
「クリフト。お父様何か言ってた?」
「様子を見てくるようにと仰せつかりました」
「それだけ?」
「それだけです」
「怒ってなかった?」
「それでしたら、今まで通りです」
 それまでのお転婆と同じように怒るのも通り越して呆れている、という意味だ。
 アリーナは冷や汗を浮かべる。そっと、ドアから離れた。
「クリフト、ちょっと入ってもらえる?」
 クリフトは先程から心配している侍女に目で合図する。大丈夫です、と。

「失礼いたします」
 ようやくアリーナの姿が見えた。彼女は今年で15歳。少しずつ大人へと変化する思春期の年頃。 若く活き活きとした彼女も女性らしい魅力を備えつつある。 そんな彼女が謝るといつもクリフトはつい許してしまいそうになる。
 いつもなら。いつもならそうだ。
 だが、今回、部屋に入ったクリフトが最初に目に付いたものは“壁”だった。
「姫様…こ、これは…」
「…やっぱり、怒られちゃうわよねー」
 まるで、宿題でも忘れてしまったかのようにかわいく笑ってごまかそうとするアリーナに クリフトは眩暈を起こしそうにって眉間を押さえた。
「どうやったらここまで…」
 クリフトは“壁”に近づいて、手を触れる。いや、“壁”の断面だ。
 どうやってやってのけたのか、その壁には大きな風穴が開いていた。 クリフトのような大の男でも身を屈めれば通れてしまいそうな大穴である。
 何も遮るものもなく、険しいサントハイムの連峰と よく晴れた空が見えた。
「あのね、ちょっとストレスがたまったから壁を殴ったら、その、壊れちゃったの」
 乾いた笑いで弁明するアリーナだったが、クリフトはこれを王にどう報告したら良いものかと思案にくれる。
「……やっぱり、怒られるかな」
「そうでしょうね。でも、何かあったのですか?」
 クリフトは気になったのは壁を殴り壊すほど、アリーナの心を苦しめたのは一体何かということ一つ。 クリフトは擦り傷の出来たアリーナの拳に癒しの呪文を唱えながら尋ねた。
 もし、またアリーナと揉め事を起こすような家庭教師がいたら神官の権限で変えてやろうと思ってのことだ。 アリーナのお転婆ぶりに堪忍袋の緒を切らし、やっていられない!とアリーナと喧嘩する教師も後を立たない。 その度に暴れられてはたまらないというのもある。
 アリーナはベッドに勢いよく腰掛けた。

「だって、外に行きたかったから」
 クリフトはその言葉に立ち尽くす。それは彼にとって最も困る話だった。
「私はずっと旅に出たかったの。何年も前、神官長に聴いた旅のお話のような」
 わかっていた。クリフトにはずっと前から。アリーナが旅に出たがっていたことに。 ただ、彼には立場上、それを許すわけには行かない。だから、ずっと気が付かない振りをしていた。
「姫様。姫様が旅に出られたら私は…」
…消えてしまいます。
 家臣として相応しくない言葉を自覚してクリフトは口を噤んだ。
「クリフト、何?言って」
「いえ、皆が心配されます」
 その言葉にアリーナは眉間に皺を寄せ、悔しそうな顔でクリフトを睨みつけた。
「何よ。クリフトだけは、クリフトだけは応援してるって思ってたのに」
「姫様…私は…」
 昔、なんとなく話をあわせるかのように交わした約束。アリーナはそのときのことを言っているのだろうか、とクリフトは きゅっと目を閉じた。約束を反故する罪悪感。
「私は…このお城に仕える神官です。家臣として、姫様の旅を応援するわけには参りません」
「クリフトのばか!」
 クリフトは歩きながら、投げつけられた枕を片手で受け止める。
「壁の方はすぐに修理の者を依頼します」
 クリフトは部屋を出て行く前にドアに手をかけたまま、アリーナの方を向かずに事務的に伝えた。
「そして、この件は私の方から陛下に報告致します。なるべく上手く申し上げるように努力致しますのでご安心ください」
 ドアの向こうで、何か言っているのがクリフトにもわかったが、聴こえなかった振りをして立ち去った。





 その日の夕刻のこと。
 クリフトは次期神官長に期待されている神官ティゲルトと共にフレノールの町に訪れていた。 ティゲルトは各地の教会を見て回り、町の状況を聞き、城や教会の連絡を取っている。 城を出て各地を見て回るのも先輩の仕事を見るのも重要な研修である。今まではクリフトの次に若い神官であるフレイが ティゲルトに何回か付いていたが、最近になりその順番がクリフトに回ってきた。
 職務を終え、教会を出て街中を歩く。ティゲルトが半歩後ろに控えて歩くクリフトに声をかけた。
「今日は疲れたか?」
「いえ、ルーラで来ていますので疲れていません」
 クリフトは今回、ティゲルトのルーラで移動していた。初めての遠出のクリフトに考慮してのことだ。
「そうか。次は馬で来るぞ。そうすると、時間もかかるし魔物も出る」
「望むところです」
 クリフトは強気だった。ティゲルトはにやりと笑う。
 ティゲルトは鍛え甲斐のあることだ、と一言だけ言うと、どこかへ向かって歩みを進めた。

 着いたのは町外れの草原だった。フレノールの柔らかな大草原は夕日を受けてオレンジ色の海原のように風に草を揺らしていた。
 ティゲルトはおもむろに自分の背負っていた長剣をクリフトに投げて渡し、自分は腰に下ろしていた片手剣を構える。
「少し相手をしてやろう」
 ティゲルトは上級の回復呪文も扱える。打ち倒す気でかかってこい、ということだ。
「よろしくお願いします」
 二人はしばらく切り結んでいたが、ティゲルトは片手で余裕で受け流す。 傍からみても実力を試されているのは明らかだった。

「ここまでだ」
 ティゲルトは剣を納める。呼吸一つ乱れていない。クリフトは肩で息をしながら一礼をして剣を返した。
「感想は“まだまだ経験不足”といったところだな」
「…はい」
「しかし、これから実戦を積めばその辺りの兵士に負けないくらいには伸びるだろう」
 クリフトは今まで受けたことのない好意的な言葉に驚いた。 城を守る兵士達よりもこの神官ティゲルトの方がよほど各地を立ち回り実戦を重ねている。その経験からの率直な感想だった。
「意外か?…言っただろう、実戦の経験が足りないのだ。練習や試合では伸びない芽もある…ところで…」
 ティゲルトが何か言いかける。言いにくいのか言葉を慎重に選んでいた。
「…巡礼の旅に出る気はないか?」
「…私がですか?」
 クリフトは突然の話に真意を掴みかねていた。落ちる夕日を背にした彼の表情は影になってしまい読みにくい。
 ティゲルトにとっては話しづらい内容であった。
「…私には巡礼の旅は…」
 クリフトにはまだまだ自分には早いと思い、断ろうと首を振った。
「お前は将来を期待されている。経験を積むのも良いかと思う」
 おかしい、話が急すぎる。クリフトは怪訝に思った。その様子にティゲルトは気が付いたようだ。
「…姫様には最近、縁談の話が各方面から来るようになった」
 ティゲルトは決断したかのようにはっきりと。 クリフトもアリーナもお互いに依存していることを知っているからこそ言い難く、また言わなければならなかった。 クリフトは彼の言葉に目を見開く。
「私が……姫様のご結婚の邪魔であると…いうことですか…?」
 ティゲルトは彼の問いには答えなかった。
「もし、巡礼に出て聖地から帰ってきたなら、お前の経験にも今後の道にも影響するだろう」
 呆然と立ち尽くすクリフトの横を通る。
「少し考えてみるといい。望むのなら、いつでも許可を出すし援助もする」
「教えてください!」
 クリフトはティゲルトの背中に問いかけた。
「それは、陛下のご意思ですか?!」
 実際、ティゲルトは王に言われたわけでも神官長に言われたわけでもない。 アリーナの婚期が遅れれば、それは対外的にも政治的にも何も良い影響はない。 ティゲルトなりにサントハイム国を心配してのことだった。 ただ、それをクリフトに伝えると彼は意地でも城に止まるだろう。
「お前のことを考えた結果だ。よく考えるがいい」
 ティゲルトはこの話をしたことを間違ったこととは思わない。そう自信があった。 しかし、クリフトがいなくなれば、どんなに姫は落胆するだろうか。そして、目の前のこの男も。 この厳格さの塊のような神官もまた外見からの評価よりもよほど優しい男である。 この話を切り出すのは身を斬るかのような思いだった。ただ、嫌われ役を買って出る責任感のみが彼を動かしている。
 クリフトは沈み行く夕日を見つめた。何も考えられなかった。 いつもなら早く回るはずの頭が酒にでも酔っているかのようにまったく回転しない。
「夜になる。戻るぞ」
 帰りもティゲルトのルーラで落ちかけた日が沈み切る前に城に戻ることとなった。





 城に戻っても、彼は休む気にも勤めをする気にもなれなかった。
 暮れていく庭園は薄暗く、鳥はすでに眠り花の蕾もしっかりと閉じている。
 ぼんやりと座ったまま。城の庭園からアリーナの部屋を見上げて考える。 否、考え事などしているつもりで、本当は何も考えてなどいなかった。
(姫様の幸せ…か)
 アリーナの部屋の壁は木で仮に修理されている。よくあの分厚い石壁を叩き壊したものだ。 おそらく、外の世界での冒険に憧れたアリーナは何度もあの壁を殴りつけていたのだろう。 その打撃は少しずつ内側を破壊しヒビを刻みつけ、昨日ついに限界に達したのである。
 そこまで外界に憧れて、彼女は何を求めているのだろうか。
 考えていることといえばそんなことだった。

「…!」
 アリーナが見えた。アリーナは窓からずっと空を見つめていた。 アリーナの部屋は窓は抜け出せないように格子が付けられていて、まるで物語の中の捕らわれの姫のようだ。
 胸が締め付けられるような、寂しい無表情。なぜか、ニックのことを思い出す。
 自分も似たような瞳で見上げている自覚もなく、胸が痛む理由もわからない。
 それでも、クリフトの心はこの瞬間に決まった。
(元から姫様に仕えようと神官になった。姫様の望みならばどんなことでも)









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『まぢ 濃ゆい。』