「それでね、部屋の壁の修理は今日には終わるみたい」
 壁を壊した次の日。今日はアリーナの勉強をクリフトが教える日だった。 彼女が家庭教師と喧嘩するたびにクリフトが教えるべき教科が増えている。 周りの人間も流石にワザとではないのかと焦りだしていることを二人は知らない。
 この日教える語学の勉強も後から増えた科目であった。
「そうですか。それはよかったですね。うまく収まって良かったです」
 クリフトは勉強に入る前に、とアリーナにいつもの紅茶を淹れながら答えた。
「それに木での仮作りのままだとまた姫様に壊されてしまうかもしれないですものね」
「めずらしいわね、そんな皮肉を言うなんて。でも、昨日はありがと」
 昨日の件はクリフトが必死に王や大臣に誤り、アリーナへの怒りは収まっていたのである。 ただ、管理不行き届きということで形だけの簡単な減給があったことをアリーナには言っていない。 しかし、当のアリーナ自身も今度こそこっぴどく怒られることを自覚していた。
 昨日のことをまだ怒っているんだろうか。アリーナは黙々と紅茶を用意するクリフトの様子に 何を言ったらいいものか、と居ずらくなってきた。
 
「姫様は覚えていらっしゃたんですか?」
「何を?」
「いつか、一緒に旅に出ようと約束してくださったことを」
 クリフトはお茶を淹れる手を止めて、アリーナの瞳をじっと見たまま動かない。 いつもの微笑みは影をひそめ真剣そのものだった。アリーナの顔が少し紅潮する。
「もちろん、覚えてるわ。でも、どうして?」
 クリフトは誤魔化すようにお茶をアリーナに渡して再び微笑んだ。
「…私のようなものに気をかけていただけていること、大変光栄です」
「…なによ、それ」
 アリーナは頬を膨らましながら、紅茶に砂糖を落としてかき混ぜた。
 一瞬、二人で旅に出てくれるのかと期待したのに、と。
「後ほど姫様が隙間風でお風邪を召してしまう前に職人に“念を押して”おきますね」
「そうよ、結構雑な造りなんだから!」
 アリーナは一気に熱いお茶を飲み干すと、ヤケになったようにクリフトに勉強を進めるように急かした。




 一通りの習い事を終え、夕方に部屋に戻ったアリーナは疲れているのかふぅっと息をついた。
 クリフトの授業の後に続いたダンスや食事作法の勉強、それは彼女にとってはつまらない話で苦痛であることは昔から 何も変わりない。
 壁を見る。 あいかわらず、不自然な木材のままだ。
「何よ、直ってないじゃない」
 苛々とアリーナはベッドに座る。
(…?)
 置いたその手に何かに触った感触があった。





「陛下如何いたしましょうか」
 その夜、謁見の間では王、大臣、近衛隊長、ブライ、神官長とその側近ティゲルトが集まり極秘の会議が行われていた。
「侍女からの話によると、何かアリーナ様のお部屋で音がするとか」
「おそらくは修理中の壁の木材を少しずつ外しているのでしょう」
 王は真剣に考えていることがあった。その後押しをするであろう信頼のおける老人を見やる。
「ブライ、どう思う?」
 ブライは畏まりながらもはっきりとした声で王に意見した。
「…行かせて差し上げたら良いかと思います」
 大臣と近衛隊長が慌てた。
「ブライ殿、一体何をお考えですか?!」
 王は全く動揺せずにブライを見つめ返した。
「姫様は旅に憧れておいでです。このままでは暴れる一方でしょうし、満足したら戻られるでしょう」
「ならば、ブライ。あのお転婆にお前が着いていてやってくれるか?」
 王は試すかのようにブライに問うた。お前にあの姫のお守りが勤まるのか、と。
 しかし、ブライはしっかりと頷いた。
 ブライの本気を見た王は今まで沈黙を守っていた神官長に目を向けた。
「私も賛成でございます」
「そうか」
 神官長は傍らにじっと控えていた腹心であるティゲルトに命じた。
「ブライ殿と共に治癒呪文の使い手も必要じゃ」
「それでは、フレイを共に行かせましょう」
 王はティゲルトの人選に次の言葉を待つ。
「フレイは最近ようやく神官として一人前になりました。今は歴史の研究官ですが、 研究のために各地を回って実戦を積んでいます。剣についても最近は見られるようになってきました」
 大臣や近衛隊長も頷いた。
「サントハイム国内までだ。その間はブライ、大切な娘のことをくれぐれも頼む」
 簡潔な言葉が全てを物語る。会議はそこで幕を引いた。



 すぐに神官フレイに命令が下った。
 フレイは金髪に碧の瞳を持つ優しそうな青年だ。今年24になる彼はクリフトの次に若い神官である。
 知識や教養を買われて城に仕える神官達の中でもティゲルトとフレイは剣術にも才覚のある バランスの取れた戦力でもあった。
 最近には経験もそれなりに積んできているので、機転も利くだろう。 誰が見ても神官の中では彼が一番適任であった。
 聖水で清められた大剣を背負った彼は秘密裏に出発するため、人目を忍んでブライとの待ち合わせ場所に向かう。  サランへの街道の始点。そこで姫を待ち合流する予定だ。


 待ち合わせ場所に着いたとき、まだブライは着いていなかった。 フレイは普段から各地への出発があったため準備は普段から整っている。準備の時間分、ブライを待つことになりそうだ。
 ただ、感じる気配。魔物ではなさそうだが…。フレイには心当たりがあった。
「来ると思っていたよ」
 夜のサランの街道への木の陰。声をかけられると、クリフトは姿を見せた。
「フレイ、お願いです。お役目を替わってください」
「…命令がくだったのは私だけど?」
 フレイは余裕の表情のまま、クリフトの装備を眺めた。棍棒だ。
「そんな装備で姫様の護衛を勤めるつもりなのか?」
 クリフトは無表情でその棍棒を手に取った。

「これは、これから貴方を殴るために用意しました」

「……そこまでして?」
 本気なのか。最終的にはそのつもりがあるという交渉という名の脅しなのか。どちらにしても狂気的だ。フレイはいつでも剣を抜けるように身構えた。
 クリフトは何の感情もこもらないまま言った。
「姫様が望んだからです」
 クリフトの意味深な返事も気になるが、フレイはもっと気になっていたことがあった。
「姫様の部屋の壁の修理が遅れていたのは、君の差し金かい?」
 クリフトは何も言わずにじっとフレイの瞳を見据えた。フレイの背に冷たいものが流れる。
「なぜだ?」
「私は修理の方に“二度と姫様が壊せないようにくれぐれも頑丈な工事をお願いします”とお願いしただけです」
 フレイの顔からも微笑みが消える。剣を抜いた。
「後輩に殴られて気絶、なんて失態は私もごめんだよ」
 一触即発。
 その硬直した沈黙を打ち破るかのようにフレイは問いかけた。
「そうまでする理由を教えてくれないか?」
 クリフトは答える。
「姫様が望んでいるからです」
 先程と待ったく同じ答え。フレイは違和感を覚えた。
「望んでいるのはクリフト、君の方じゃないのかな?」
「そうかもしれません」
 フレイは構えを解いた。
「姫様を守れるか?」
「命に換えても」
 フレイは首を振る。
「違う。そうじゃない。姫様もブライ様も君も、無事に帰ってくるように努めるのが役目だ。できるか?」
「…できます」
 その返事を聞いてフレイは剣を納めて彼に差し出した。この任務のために神官長が祈りを捧げ清められている。 ティゲルトの剣にも負けない長剣だ。
「私が引き受けた任務を替わるんだから絶対にしくじるなよ。私を“殴った”借りは高くつくからな」
 フレイはそれだけ言うと後ろ手に軽く手を振りながら闇の中へと戻っていった。



 遅れて到着したブライは聞いていたのと違う人物がいることに目を疑った。
「お前は…」
 クリフトは頭を下げる。
「神官クリフト、お二人の護衛を仰せつかりました」
 ブライは諦めたようにため息をつき笑った。
「まったく、やっぱり姫様はお前さんじゃないと誰も言うことをきかせられんからな」
「クリフト!ブライ!」
 二人は待ち望んだ姫の登場に微笑んだ。
「お待ちしておりました。さぁ、騒ぎになる前に参りましょうか」
 ブライのその言葉にアリーナは輝くような笑顔を浮かべる。
「お父様が認めてくださったの!?」
 ブライは優しく頷いた。そして、杖でクリフトの頭をコンコンとつつく。
「足手まといが一人おりますが、ワシら二人で姫様の旅のお供をいたします」
 アリーナはブライに飛びついた。
「ありがとう!二人のことは私が全力で守ってあげるから、いい旅にしましょうね!」
 早速何かが違う。ブライとクリフトは互いに見合わせて笑った。





 礼拝堂で一行の無事と安全の祈りを捧げていたティゲルトは顔を上げた。
「フレイ、役目はどうした?」
 背後に現れた人物の気配。纏め上げている後輩の気配を間違える程、彼は気を抜いてはいない。 声をかけられたフレイは跪くティゲルトの横にならび、共に祈りを捧げるために目を閉じた。
「答えないか」
「……私は彼に“殴られた”ので、お役目を替わってきました」
 フレイはうっすらと目を開いて嗤った。
「しらじらしいことを」
 ティゲルトは苛立っていた。アリーナの部屋には木造の壁を分解するような道具はない。
 しかし、壊せばすぐに誰かにわかってしまう。アリーナが壁を破ろうとしているのが知れたのは、 侍女が風邪を引かないように毛布を持っていったために偶然に発覚したことだ。 誰かが道具を用意してアリーナを導いたに違いなかった。そして、姫の手引きをできるような近しい人物は限られている。
「あいつは何を考えているんだ!」
 ティゲルトは剣を片手に立ち上がった。追いかけて連れ戻すために。

「よい、行かせなさい」
 いきり立つティゲルトを納めたのは礼拝堂の入り口に佇む神官長ソテルの一声だった。
「なぜですか?!」
 神官長は静かに聖像の前まで歩みを進め、フレイに尋ねた。
「クリフトの様子はどうじゃった?」
 祈りを捧げていたフレイは顔を上げた。
「恐ろしいほどに直向でした。危なっかしいと思います」
 ろうそくのゆらめきに照らし出されるフレイは自然と穏やかな表情だ。
「ただ、不思議と信じられる気がしました」
「そうか」
 神官長は静かに二人に語った。
「最近、この空を包む邪悪な気配は感じておるな?」
 二人の神官は頷く。
「私は此度の旅立ちの話、それは何かのお導きのような気がしてならん。 お前たちも感じたように、それがどんな結果をもたらすだろうかと危惧する以上にな」
 すっかり冷静を取り戻したティゲルトは再び、フレイの横に跪いた。
「そして、大司教クレフが一目見たときに、神の天啓かと思うほどに衝撃を受けたと話しとった子供。 私はクリフトを神が導いているような気がしておる」
「神官長がそう言われるのならば」
 ティゲルトは再び祈りを捧げ始めた。
「それに姫が旅に出てしまったら、クリフトの仕事がなくなってしまうじゃろうに」
 神官長はおどけたように笑った。
 丁度、巡礼の旅ならいつでも許可を出すと言ったばかりであることを思い出してティゲルトは苦笑した。
(まぁ、いい。クリフトの才覚も本物だ。戻って来る頃には反省しているだろう)



 サランで準備を整えたアリーナ一行が向かった先、テンペ。
神官達が感じていた邪悪な気配に呼応するように、その村では正にこのとき魔物が贄を屠ったときであった。




NEXT

BACK

『まぢ 濃ゆい。』