『善悪』


「トルネコさん。お疲れ様です」
 クリフトは緊張して肩に力の入ったままのトルネコに、仲間達からの差し入れを手渡そうと声をかけた。 籠の中身はガーデンブルグで調達した果物の類や甘い飲み物、そしてパンとハム。
「どうもありがとう」
 トルネコは肩からかけた手ぬぐいで額を拭きながら、先程までの恐ろしくも感じた真剣な顔つきから打って変わって温和に笑って振り向いた。 ガーデンブルグで盗人と間違えられた事件をきっかけに随分と打ち解けることができた気がする、クリフトは少なくともそう思った。 今まではこんなに自然に笑い合ったことなどなかったからだ。

 トルネコは固まった首を廻しながら周囲の状況を確認している。
 今、航海を進めているエルフの住む村へのルートは運河のように整えられているわけではない。 そこはときには大海のように広く、あるときには船体が岩場にこすれてしまうほどに狭い。 そして、今は鬱蒼と生い茂る暗い森の合間だ。わずかに霞がかかり視界も良好とは言えなさそうだ。
 トルネコは乗組員に指示を怒鳴り飛ばしながら、船を操っている。 こうしているのもすでに二日目だ。恐らく、彼はろくに寝てもいないだろう。
「ふう。少しだけ変わっていてもらえますか?」
 トルネコは片手を離して、クリフトに舵を示した。当然、クリフトは船など扱った経験などない。
「大丈夫。ちゃんとわたしが見ていますから。何事も体験ですよ」
 恐る恐る手を伸ばした。
「…こ、こうしたらどうすればよいのですか?」
「右や左に廻せばいいんですよ」
「…まぁ、確かにそういうイメージはありましたが…」
 もっと具体的なアドバイスが欲しかったクリフトは緊張した面持ちのまま、苦笑した。
 どっかりと座り込んだトルネコはのんびりとパンにハムを乗せて頬張りながら、静かに見守っている。 隣に居た雇われ乗組員の精悍な若い男が大声で笑いながら肩を叩いた。
「大丈夫ですよ!今は視界も悪いんで、ゆっくり進んでますし、極端に言うとそのまま持ってるだけでもしばらく大丈夫なとこですから!」
「そうなんですか」
 良かった。と、一息つくものの、生来生真面目な彼は尚も緊張したまま手に力がこもる。 力ばかり入るが、言われてみれば確かに持っているだけでも良さそうだ。…何か必要なこともあるようだが、 トルネコと乗組員達で手際よく話が済んでいく。

 しばらくそうしていただろうか。実際は5分やそこらの話なのだが、随分と長くそうしているような気がしていた。 ようやく、トルネコの一時の休憩も終わったようだ。
「どうもありがとう。ゆっくり休めましたよ。では、わたしが戻りましょうかね」
 本当にこれで役に立ったのかわからないままに、曖昧に頷くとトルネコに場所を譲る。
「どうでしたか?普通の人が普通に生きていたら、船の舵なんて触りませんからね」
 言われてみれば確かに。手を離してようやく、貴重な体験をしたという実感と、(何もしていなかったが)ほんの僅かな間だというのに 船を操ったという実感が高揚感として胸をつつく。
「貴重な体験をさせてもらいました」
「それは良かった。…まったく体験したことのない新しいことをしてみると、気分が良いと思いませんか?」
「…えぇ。世界観が広がるような気がしますね」
 トルネコも満足そうに頷くと、近くにいた乗組員にまた何か指示をした。彼は頷くと船室へと消えていく。
「…ところで、クリフト君。…クリスさんの様子はどうですか?」
 トルネコの声は真剣そのものだ。そうか、人払いか。そう思い当たったクリフトは小さな声でも聞こえるように出来るだけトルネコの近くに寄った。
「…一応食事も皆と一緒にとってますけど、クリスティナさんの様子は普通ではありません…一体…?」
「そうですか」
 トルネコは軽くため息をつくと、トントンと舵を叩いた。
「…ならやはり、クリフト君とアリーナさんが一緒に行くというのは正解でしたねぇ。見守ってあげてくださいね」
「それはどういうことですか?」
 もったいぶった言い方に焦れて問い返す。
「クリスさんが今旅をする理由にもいろいろあるということですよ。…わたしも詳しくは知りませんけどね」
「…クリスティナさんは…」
 考えてみれば、定めの勇者だから。そんな曖昧な理由で若い女が一人で剣を持って旅など出るものではない。 そんな単純なことも考えたことがなかった。
「…いいですか、わたしは今から独り言をいいますよ」
「…」
 たった一言であったが、彼の話した事実の一欠けらはクリフトを黙らせるには十分な効果があった。





 船室のベッドに座るクリスに場違いなほどに明るい声がかけられた。
「…そんな顔してたら、眉間の皺が取れなくなっちゃうわよ」
「………そんな顔してないですよ」
「してるわよ」
 マーニャは勢いよく隣に座ると、クリスの髪を撫でた。
「……あんたの気持ちはすっごいよくわかってるつもり」
「…」
「私が旅に出た最初の動機は、今のクリスとまったく同じだったわ」
 仇討ち。
 クリスは顔を歪ませて、逃げるようにマーニャから顔を背けた。
「だから、クリスが思ってること私には止める権利もつもりもないけど、…言いたいことわかるかしら?」
「…わかりません」
「クリスが今考えていることは、復讐という名を借りただけの八つ当たりってこと」
 マーニャは足を組みなおしながら、それでもどこか気恥ずかしそうに言った。
「私もお節介すぎるとは思うけどね。…“守らなきゃ”ってのもあってね。あんたみたいな世間知らずの妹も増えたことだし」
 クリスは少し心外そうに膝を抱えた。
「…あたしは手間のかかるお姉さんができた感じです。ミネアさんの苦労が分かる気がします」
「よく言うわね」
 少しだけ調子の戻ってきたクリスに内心ほっとしたことを悟られないようにしながら、 マーニャはからかうような口調でクリスににやにやと笑いかける。
「上陸したらクリフトちゃんとアリーナさんと行くんでしょ?二人の邪魔しちゃダメよ」
「しませんよ。最初から他の人しか目に入っていないような男の人に興味なんかありませんよー」
 マーニャは立ち上がると、後ろでにドアノブを回した。
「じゃぁ、今度一緒にエンドールに行ってイイ男でも探そっか」
「…遠まわしにカジノへ誘ってますね」
「いいじゃないの。たまには」
「………そうかもしれませんね」
 クリスが意外にもそう頷いたのを見て、マーニャは最後に一つだけ付け足した。
「これからクリスが何をどう決断するのも自由だけど、後悔しないようによっく考えたほうがいいわよ」
「……うん」

 クリスの生返事をきくと、伝えるべきことだけ伝えたマーニャは手持ち無沙汰にふらふらと歩き始めた。 ずっと航海は続いている。しかも、上陸したところで待機なのだ。全くやることがない。
(噂をすればなんとか、か)
と、彼女は思った。近づいてい来る影は神官のものだった。
「クリフトちゃん。上は何かおもしろそうなことはあった?」
「ありましたよ」
 社交辞令のつもりで訊いた筈が、思わぬ返事に目をぱちくりとさせる。
「何があるのよ?」
「この船の操舵体験教室です」
 クリフトは心底人が良さそうに微笑んでいる。それならば、とマーニャはさっさと彼の横をすり抜けると早歩きにどこぞへ向かう。
「トルネコさんのところへ?」
「そうね。この際だから、私もちょっと手伝ってやろうじゃないの!って思ってね!」
「そうですか。あま…」
あまりご迷惑をおかけにならないように。そんな冗談を言う間もなく、姿が見えなくなってしまったマーニャにクリフトは 内心嫌な予感がしたが、笑いを堪えて歩き出した。

 当然、嫌な予感は的中し、急に船が大きく揺れた。…どこをどう操作したらこうなるのだろうか。 クリフトは想像通りの展開におかしくなって、一人で笑った。




 そして、“森の妖精”のもとへと向かう日が訪れたことを告げる朝。
 静寂と安寧のみが支配する森を照らしていく朝日。そして、朝日に追い立てられるように引いていく霧。
 錨を下ろす金属の軋み、ぎりぎりと音を立てた。
 上陸する準備を進めていたクリフトにブライが歩み寄った。
「くれぐれも警戒を怠るな」
「承知しております」
「それと…」
 ブライは周囲を確認すると声を潜めた。クリフトも屈んで耳を近づける。
「…クリスの様子に注意しろ」
「…そのつもりでおります」
「ならばよい」
(…クリスティナさんのこと。自分のこと。姫様のこと。…我ながら抱え込んでいるな)
 ブライは強張った面持ちで頷く。アリーナが近づいてきたのを確認してクリフトも姿勢を正した。
「姫様、準備は出来ておりますかな?」
 アリーナは持っている袋の中身を二人に見せる。中に見えるのは薬草類と鉄の爪。
「他に何を持っていったらいいかしら?」
「おや、ガーデンブルグで頂いた炎の爪はお気に召しませんでしたかな?」
「んー。やっぱり慣れているこっちの方がいいと思って」
「然様ですか」

 クリスが呼ぶ声が聞こえて、ブライは二人を促した。
「さぁ、爺はここでゆっくりお休みさせていただきますぞ。クリフト。姫様をしっかりお守りするのじゃぞ。 姫様も面倒な事は何でもやらせれば良いですからな」
「うん。そうね」
「取り合えず、その手荷物は全部持たせておやりなされ」
「そうね」
「…喜んでお持ち致します」
 楽しそうなブライとアリーナにクリフトは苦笑しながらも従う。
「行こうか。クリフト」
 アリーナと目が合った。その瞳は決して冷たいものではなく…。
「え、えぇ。行きましょう」
不覚にもそれが嬉しくて声が吃音してしまった。




 船を下りて上陸すると、すぐに森へと進んだ。その森は人の気配もなく、大自然が作り出したままになっている。 陽光に照らし出される木漏れ日は優しく、リスが警戒することなくに様子を伺っているのが見えた。
「……」
 やはり、クリスの様子はおかしいままだった。無言で歩き続ける彼女は背中からも威圧感を発しており、周囲を威嚇し続けている。
 アリーナが苦笑いしているのが横目に見えた。
 そして、いつまでも無言のままにその村は見えた。
 

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