眠れたのか眠れないのか全く理解できないままに、クリフトは重い頭で起き上がった。
カーテンを開けて寝過ごしていないのか確認する。…白い朝の光だ。
同室のライアンはまだ眠っている。いつもなら、ここで彼を起して剣の稽古に付き合ってもらうところだが、
今日ばかりはつき合わせてしまうのも申し訳ない。
クリフトは手早く身支度を済ませると、急いで部屋を出た。
アリーナは待ち合わせに、と約束していた宿の正面玄関ですでに待っていた。
「申し訳ございません。お待たせしてしまったでしょうか?」
アリーナの方が朝早く起きていることは非常に珍しい。
自分の方が早いだろう、と高をくくっていたことを反省する。
「私も今丁度来たところよ」
…気遣いなのか、本当なのかは分からないが、その有難い言葉にクリフトは礼を言うと、
キメラの翼を取り出した。
「すみません。私はルーラが使えないので」
アリーナは首をかしげて、くすりと笑った。
「クリフトらしくていいと思うけどね。じゃぁ、いきましょう」
まだ、太陽の昇りきらない空に向けてクリフトはキメラの翼を投げた。
サントハイムは秋になろうとしていた。
見慣れたはずの城門が、何故かすごく懐かしい。
バルザック達魔物から城を奪還しようと戦ったときにはここには魔物ではあったが人がいた。
そして、戦うことに必死だった。
だから、この城に人がいなくなってしまったことを思い出す暇もなかった。
だが今は違う。…完全な沈黙だ。
誰もが消えてしまった城。
家族同然に暮らしていた人々が消えてしまったという事実。
「…静かですね」
「うん」
「行きましょうか」
「うん」
どちらから、ということなく、城門をくぐった。
魔物との戦いで荒れた城内。カーテンや絨毯はあちこち破れて焦げ、
柱には皹が入っている。倒れた燭台や花瓶を避けながら城内を進んでいく。
クリフトがいつも祈りを捧げていた礼拝堂に差し掛かった。かつては毎日当たり前のように押していた扉は外れ、地面に伏せっている。
「…たしかに」
クリフトが独り言を言うように呟いた。
「何が?」
クリフトは足元に倒れた聖像の一部を持ち上げて、元通りに戻しながら答えた。
「ここに戻ってくると、あのときの悔しい気持ちを思い出しますね」
そして、絶望した気持ちも。
「うん。そうね」
そして、次に中庭に訪れた。
城で所有していた伝書鳩の小屋が見える。
ここはいなくなった城の者を探す旅に出ることをアリーナとブライに打ち明け、決断した場所。
「鳩はどこ行っちゃったのかしら?」
「きっとティゲルトが放してくれたのでしょう」
「そっか。さすがティゲルトはいろいろ細かく気をまわしてくれるわね」
「そうですね」
ティゲルトは見た目よりもずっと繊細に気がまわる。クリフトは少し嫉妬する気持ちを抑えながらも頷いた。
アリーナは鳩小屋の中は覗きながら、突然、思い出したように顔を上げる。
「…神官長やフレイが戻ってきたら、何を言ってやる気なの?」
旅立つ際に交わした冗談めいた言葉を思い出す。ブライは王に小言を言ってやるんだと言っていた。
「…そうですね…。“私も意外とできるでしょう?”ですかね」
(そして、“今までありがとうございました”と)
それだけ伝えて、この城を出ようと心に決めている。
「姫様は…誰に何を伝えるおつもりなのですか?」
アリーナはすぐに笑顔で返した。
「皆よ。お父様にも大臣達にもメイドさんも兵士長にも神官達にも!
“私がお転婆で助かったでしょ!?”って。ね」
「!そうですね」
二人して声を出して笑った。
中庭をさらに進むと庭園の中の東屋が見えた。
庭園の草木は手入れが為されておらず、芝生の背も伸び放題に伸びている。そんな草の中を掻き分けながら進んで、
ようやく東屋に辿り着いた。
衣服に着いた葉を叩き落しながら、アリーナはベンチに座る。
「小さい頃、クリフトはここでよく絵本を読んでくれたわね」
出会ったばかりの頃、庭園の緑の優しい光に包まれながら、
まだ字の読めないアリーナのためにここでよく絵本を読んであげていた。
「…クリフトが読んでくれる絵本。大好きだった」
「ありがとうございます」
ふと我に返ってみれば、何もかもが変化している。
庭師が手入れした庭園は荒れ果て、雑草が生い茂っている。
歓談するメイドの声もしない。
暖かく見守ってくれた大臣も王も、王妃もいない。
誰もいない。
今、いるのは大人になった自分とアリーナだけ。
「…忘れてしまうところでした」
「…ん?」
「私が多くの方々に助けられて今在ることを」
捨てられて、成長することなく死んでいただろう自分が今、こうしてこの地に立っている。
ここにいることが出来て、戦う力を持っていて、なぜ戦うことを拒否しようとしているのか。
「私は私で在ることができる。私が今まで関わってきた全ての人のおかげで。
そして、その人達がその人達であるのは、また別の人達との関わりのため。
全てが関わりあって生きている。私が私であるように」
クリフトはアリーナの前に跪いた。
「だから、私は私が私で在るために。私を育んできた世界の人々に恩を返すために戦います」
アリーナはクリフトの前に手を差し出した。
「正義とか悪とか。大それた理由なんて最初から必要ないと思うの。私は私の信じることを貫き通して戦うの。
だから、クリフトもそう感じたのなら、それを貫き通して」
「承知致しました」
クリフトは力強く頷いて、その手にキスをした。
アリーナは次の場所へ向かおうと立ち上がった。
「姫様。まだ、城内には魔物がいるかもしれません。…その…装備の方は…」
言いにくそうに言葉を濁すクリフトの様子にアリーナはようやく気が付いたように、鉄の爪のことを見た。
それはエスタークと戦った際に爪が折れ飛んだままになっている。
お互いに心の余裕がなくなっていたのだろう。ようやく気が付いた一つの事実に二人は苦笑した。
「…ホントね」
以前に“慣れているほうがいい”と言っていたアリーナだったが、こうなってしまった以上は装備を変えてもらうより他はない。
「ガーデンブルグの女王陛下に賜った武具があります。どうかそちらに」
「炎の爪のことよね。そうね、そうした方がいいわね」
アリーナは爪を腕から外すと感慨深く眺めた。エンドールでの大会以降、ずっと使い続けている愛用品だ。
愛着もあるのだろう。
「あーぁ。遂に使えなくなっちゃったのね。…ずっと、使いたかったんだけどなぁ」
「…しかし、攻撃力も込められた魔法の力もあります。替えた方が良いのでは…」
「そうなんだけどね」
アリーナは恥ずかしそうに苦笑いを浮かべると鉄の爪を抱きしめた。
「だって、これ。クリフトが初めてくれたプレゼントだったから」
「!」
クリフトは目を見開いて立ち尽くした。
「姫様。それに気が付いて、ずっと身につけていてくださったんですか?」
「うん」
「………」
何かが胸の奥から熱いものがこみ上げて喉を鳴らした。思わず俯いてしまう。
「…姫様。私は姫様の家臣として在ることができたことを誇りに思います」
「クリフト…?」
「姫様ほどの方であれば必ずや、サントハイムを父王陛下と共に立派に復興することが可能でございます。
わたくしは今まで、そのお手伝いが出来たことを誇りにこれからの決戦に臨みます」
今までのこと。これからのこと。
溢れる感情を抑えることができずに、クリフトは一気に捲くし立てるようにアリーナに戦いへの決心を誓った。
「私が最もご恩を返すべき方は姫様でございます。必ずや、最後までお役に立ってみせましょう」
アリーナが今にも泣きそうに瞳を潤ませた。
「ありがとう、クリフト」
それだけ呟くと、彼女は突然駆け出した。
「姫様?」
「クリフト!昔みたいにかくれんぼしましょう!貴方が鬼よ!」
あっという間に草むらの中に姿を消してしまったアリーナにクリフトは困ったように笑った。
言われてみれば懐かしい。確かに小さいころにはよく二人でかくれんぼをしていた。
「わかりました。じゃぁ、数えますよ」
日に焼けてペンキの剥がれた東屋の柱に手をつくと視界を覆うように頭を伏せる。
「…30!」
クリフトは振り向いた。
「探しますよ」
あたり一面の草むら。そのどこにもアリーナの気配はしない。
今まで重ねてきた戦闘の経験から気配を消す術を得たからかもしれない。
(…やっぱり)
如何に気配を消そうとも、アリーナの癖は変わっていない。小さい頃からずっとあの場所が好きだった。
クリフトは木の上を見上げた。
「姫様。見つけましたよ」
木の上で見つけたアリーナは太い枝に座り込みながら、顔を覆っていた。
「……姫様?」
クリフトは何事か理解できずに何の反応も見せないアリーナを見上げた。
「…見つけるのが、早すぎるわよ」
顔を覆っていた手を退けると、その目は涙で赤かった。
「クリフトには敵わないわね…」
ごしごしと目を擦るアリーナが、泣き止むくらいの時間は稼げると思ったのに、そう呟いたのを聞き逃さなかった。
「姫様。どうかされたのですか?」
もしかしたら、自分が何か失言でもしてしまっただろうか。
それとも、固まった自分の決意に感動してくれているのだろうか。様々な考えが浮かんでは消えるが、
間違いなくクリフトは動揺しながら、そう尋ねた。
「何でもないわ」
「…姫様。どうか、このクリフトに理由を話していただけませんか?」
その涙の理由もわからずに、戦いに臨み、そして、サントハイムを離れることなどできはしない。
「…お願いします」
アリーナは諦めたように、木から飛び降りた。
軽やかにクリフトの目の前に着地する。
「…」
「…せっかく、格好良く決められたと思ったのに。結局私、情けないわね…」
アリーナは困惑気味に呟くと目を擦った。
「…クリフトの決意を笑顔で認めてあげたかったのに」
クリフトは何を言われているのか分からないままに、困惑した表情を浮かべた。
「クリフトは…本当にこの戦いが終わったら…サントハイムを出て行くの…?」
「どうして…それを…?」
クリフトは愕然としてアリーナを見つめた。この決意を誰かに話しただろうか。懸命に思い出す。
ミネア。ミネアに話していた。優しい彼女のこと。アリーナに伝えたのかもしれない。
「やっぱり、本当だったんだ…」
「それは…」
クリフトはしどろもどろに言葉を捜した。
いや、落ち着け。自分に言い聞かす。何を焦ることがあろうか。
「サントハイムの未来の為に。私がいない方がよいのです」
「…どうして?」
「それは…私がずっと姫様にも皆にも、迷惑をかけて足を引っ張って…」
アリーナは目を擦りながらクリフトを睨みつけた。
「…ブライも言ってたけど、私はずっと、貴方に励まされてきたわ。
ずっと。ずっと。助けられてきた。貴方はやっぱり気が付いていなかったのね」
「…え…?」
クリフトは唖然と声を上げた。
「お母様が亡くなったときも。旅に出てからも、落ち込んだり辛いときに全力で助けてくれて。
ずっと。クリフトがいてくれたから私はずっと戦ってこれた」
「……しかし、私は…姫様を裏切って…」
ハバリアでの裏切りのこと。アリーナだって忘れたわけではあるまい。
「確かにあのときは貴方のことを恨んだわ。ずっと気になってた」
「……」
アリーナは赤い目のままに、クリフトを見据えたまま放さない。
「私、貴方があのとき来てくれなくて良かったと思ってるの」
「?」
「あのとき、貴方が来てくれたら。私も混乱してて、気持ちの整理もつかなかったから。
貴方を傷つけてしまったかもれない」
「…姫様…」
「そして、私は貴方が何かに取り付かれたように戦うのを見て、それでもいいかもしれない、って思った。
このまま別れるのが一番なのかもって。でもね。その後もずっとクリフトを見ていたら…。
貴方がいないなんて考えられなくなっちゃってて…!」
アリーナは顔を覆った。
「クリフト。お願い。…どこにも行かないで…。ずっと、側にいて欲しいの…。私はクリフトのこと…」
「姫様」
クリフトは強い口調でアリーナの言葉を遮った。
アリーナが驚いたように涙でくしゃくしゃになった顔を上げる。
「姫様。どうか、それ以上はおっしゃらないでください」
「…クリフト…」
…。
「そこから先を続けるのは私の仕事です」
クリフトはアリーナの手を取った。そして、強引に小指を絡める。
「そういえばずっと昔に約束してましたね。“姫様は強くなって皆を守る。私は神官になってずっとお側にお仕えする”と」
クリフトは懐かしそうにアリーナを見つめた。
「姫様はずっと、約束を守ってくださっていたんですね」
…。
「分かりました。私はどこにも行きません」
「クリフト…」
「…私から一つお願いがあるのです。聞いていただけますか?」
「…うん」
クリフトは絡めた小指をもう片方の手で包み込んだ。その中にある、柔らかいその手はとても暖かくて。
「…この戦いが終わったら、私の気持ちも聞いていただけますか?…ずっとずっと長い間抱いてきた想いです」
「…それって…」
「今、私は舞い上がってとんでもない重罪を犯しているのかもしれません。
それでも良いとおっしゃって頂けるなら、私はどのような結果になっても構いません。
姫様にこの気持ちを受け取っていただきたいのです」
「聞かせてクリフト。約束よ。…きっと私、ずっとそれを聞きたかったと思うの」
ぼろぼろと涙を落とすアリーナにクリフトはハンカチを差し出した。
「…そんなお言葉をかけていただけるなんて、私は幸せです」
全て、決着がついたら。クリフトはアリーナが涙を拭うのを見守り続けた。
サントハイムの連峰に夕日が落ちようとしていた。
「鉄の爪はここに置いていこうと思うの。必ずここに戻って来られるように」
「…えぇ」
アリーナは城門の噴水の淵にそっとそれを置いた。その脇の花壇を見つめる。そこにはもう花は咲いていない。
考えてみればここは、初めてアリーナと会った場所だった。
願掛けには最適の場所かも知れない。
「そういえばね。一つ、間違えていたことがあったわ」
「なんでしょう?」
アリーナは夕日の赤い光の中で可憐に笑った。
「貴方が始めてくれたプレゼントは、“全てのきっかけ”だったわ」
「きっかけ、ですか?」
「そう!私が冒険に出たときのこと。クリフトは命が無くなるかも知れないのに、私を旅に出られるようにお父様にお願いしてくれたんでしょ?」
クリフトは困り果てたように、頭を掻いた。
「敵いませんね。姫様はどこまでご存知なのでしょう」
「私に隠し事なんてできないわよ」
アリーナはふと真剣な顔に戻るとキメラの翼を準備した。
「…貴方がくれたチャンスは絶対に活かしてみせるわ」
クリフトは剣を掲げると、神に祈った。この戦いに勝利して、無事にサントハイムの平和を取り戻すことを。
「行きましょう。大丈夫。天空への塔へ上るときには私がしっかり抱えてあげるから」
「…大丈夫です。今ならきっと」
アリーナは小首をかしげた。
「私は一人じゃないのですから」
「…ずっと前からそうだったわよ」
「えぇ、ようやく気が付いたのです。…私には共に進める大切な想いがあるのだ、と。
貴女と共に在ることができるのならば、過去の自分と決別できると思うのです」
「よくわからないけど、クリフトが言うならきっと大丈夫なのね」
クリフトは穏やかに微笑んだ。その顔をしばらく見据えて、アリーナは嬉しそうにキメラの翼を持った手を
目前に掲げた。
「…必ず、勝ちましょう」
「はい。必ず、力になります」
クリフトはその手にそっと自分の掌を重ねる。
戻ろう。仲間達の下へ。
ここに次に戻ってくるときには人の喧騒と生命があることを信じて。
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クリフトの高所恐怖症の理由は「栄光」版「禁呪」を参照。