それからまた二日が経った。一日の授業を終えたクリフトは部屋でその日の復習をしていたが、なかなか進まない。
机の上の蝋燭だけが溶けていく。頭がすっきりしなかった。
ニックのことは気になっていたが、本人にああまで拒絶されては取り付くしまも無い。
次にあったら声をかけよう、と思うのだが、なかなか会う機会もなかった。注意を向けてみるが、隣の部屋からは生活している音は聞こえない。
最近は出かけていることも多いようだった。
こういうとき隣の部屋というのはもどかしい。重い腰を上げ、空気を入れ替えようと窓を開けるため窓の鍵に手を伸ばす。
「!!!」
窓の外にアリーナがいた。目線が一緒だ。
クリフトの部屋は二階である。混乱したクリフトは一瞬、アリーナが空を飛んでいると思った。
「姫様、危ないですよ…」
木の枝からこっちに渡ろうとしているアリーナは至極落ち着いていて、逆にクリフトの方が慌ててしまう。
アリーナはクリフトに立ち居地を動くように左手を木から離して合図すると、軽やかに部屋の中に飛び込んだ。
「良かった。抜け出してきたのに、窓が閉まっちゃってたからどうしようかと思っていたの」
少し前にブライにしっかり怒られたばかりだというのに、彼女はまったく反省していないようだった。
また、説教をきくハメになることを悟りつつもクリフトは諦めて椅子を勧めた。
「ねぇ、私、大聖堂を見てみたいの。連れて行って!」
「え、今からですか?」
「うん」
クリフトは窓の外を見た。茜色の日差しが差し込み、影も長くなっている。
日もすぐに暮れてしまうのだろう。過ごしやすい季節になろうとしているが、夜は寒い。
「姫様、もう夜になりますよ。大聖堂の見学がお望みでしたら、明後日が休日ですから…」
「今からがいいの」
アリーナはふてくされたようにそっぽ向いた。
「でも、どうして急に大聖堂なんですか?」
当然の疑問だ。
「今日ね、お母様が話してくれたの。サランにある大聖堂は他の国に誇れるくらい立派なのよって。そうなの?」
「……えぇ、そうですよ」
クリフトは頷いた。そして、少しだけ誇らしく自慢したい気になる。
恐らく、アリーナの誘いが彼の育った大聖堂でなければクリフトは断って城に連れていったことだろう。
クリフトは壁にかけてある神学校の制服のコートを手に取った。
「姫様。大きいとは思いますけど、これを」
アリーナは飛び上がるように立ち上がった。
「お風邪を召してはいけませんので」
サランの町中は夜でも比較的治安がいい。神学校からもそう遠くない。
クリフトはアリーナの手を取って歩く姿はまるで兄妹だ。
街路樹や街を照らすたいまつ。
石造りのその町並みは紺色の空に夕日が沈みつつある淡いオレンジの光とたいまつの灯に照れされている。
夜の街を見たことのないアリーナにとっては別の世界のように見えたのだろう。
クリフトは大聖堂の外観を見たらすぐに城に送届けようと思っていたのに、アリーナがキョロキョロとあたりを見回しながらのため、
なかなかたどり着けない。
そんな少年と小さな女の子は非常に目立つ。一日の労働を終えて家へと向かう大人たちは心配そうに振り返って見るが、
クリフトはそんな視線には気が付かずにしきりに感心しているアリーナの手を引いていた。
「姫様、ここが大聖堂ですよ」
クリフトは大聖堂前の広場に着くとアリーナの手を放した。
大聖堂は天に突き刺さるように高い尖塔と大きな薔薇窓が特徴の大建築だ。サントハイム地方に多く見られる青と白の大理石を使った清潔感ある色合いが印象的であった。
大きな教会建築にはよくある話だが、この大聖堂も長い時間をかけて作られた。工期は150年。完成したのはつい50年前だという。クリフトはその話を幼い日に聴いていた。
幼い彼にとっては、とんでもない古代の話のように聞こえたものだった。
完成したといっても、それでも何年ごとかに初期に作られた部分は修理を必要とし、思い出の中でもどこかしら修理をしていた。
長い長い時間、多くの人の信仰と労働でこの建築物は成り立っているのだから、とクリフトは小さいころに言い聞かされていた。
そして、今でも彼はそうだなと思う。
アリーナはその壮大さに口を開けたまま上を見ていた。
「私は小さい頃、ここに住んでいたんですよ」
クリフトは6歳になり学校に入るまで、ずっとこの大聖堂の隣の宿舎に住んでいた。
ここを見送られ神学校へ向かった日のことは昨日のことのように覚えている。
「くしゅん」
冷たい風がアリーナの鼻をくすぐったようだ。クリフトは彼女の手をとった。
「寒くなってきましたし、帰りましょうね」
思っていたよりもずっと壮大であるが威圧感ある黄昏時の大聖堂を少し恐ろしく感じたのか、アリーナは素直に頷くとクリフトと城へと向かって歩き出した。
(お城に着いたらやっぱり怒られるだろうな…。学校に変える頃には門限も過ぎているだろうし…。)
何回怒られれば今日は終わるのか。クリフトはすっかり諦めた様子でアリーナといっしょに城への街道を歩いた。
月明かりしか頼りにならない夜の街道。草が風に吹かれる音すらも得体が知れない。彼は学校の大人たちの言葉を思い出した。
…最近、魔物が凶悪になってきているのでお城へ向かうときや帰るときには聖水を忘れないようにして、気をつけて歩くのですよ…
彼はすっかり頭から抜けていたその話を思い出し、慌ててポケットを探った。やはりどこにもない。
アリーナに貸しているコートを見てもらうがやはりない。
夜は魔物が凶暴化する。クリフトは己の考えが至らなかったことを深く反省した。
(ああ、帰ったらいくらでも怒られますし、いくらでも反省します。だから、どうか魔物に出会いませんように)
クリフトは服の下のクロスをぎゅっと握り締めた。知らない間に少し早歩きになり、アリーナの足がもつれる。
「あ、ごめんなさい姫様、少し早かったですよね」
立ち止まる、やはり怖い。
「ねぇ、姫様…」
まっすぐ前を見たまま凍りつくアリーナの視線を追う。クリフトは見た。
しばらく先で月明かりに照らされる不自然な土の動き。
目の前の馬車の轍の跡が線を描く様に膨れ上がり、静かにこちらに向かってくる。
彼は図鑑の知識を追う。モグラなんかじゃない。土の中を這い、人を襲う魔物。
(おおみみず…!?)
目の前にゆっくりと距離を縮めてくるその土中の魔物。
「クリフト、怖い…」
つぶやく様なその言葉にクリフトはアリーナを腕でかばう。
もちろん、怖い。怖くて仕方ない。足が震える。二人は硬直し立ちすくんでいた。
それが良かった。おおみみずは旅人の足音や声の発生させる振動に反応する。おおみみずは二人がどこにいるのか見失ったようだ。
その様子に気付いたクリフトはアリーナの口に手を当てて、彼女が声を出さないように、動かないように示した。
土の隆起は静かに二人の足元、数センチしか離れない距離で一直線の線を描く。
ゆっくり、ゆっくりと獲物を探す魔物は彼らの横を通り過ぎていく。
それを横目で確認していたクリフトだったが、馬一等分ほど離れたときに緊張の糸が切れた。
「うわぁあ!」
二人は弾かれるように走り出した。
その音に反応した魔物は土を撒き散らせその頭を見せた。吹き飛ばされた土や小石がクリフトの頬を掠める。
暗闇に照らし出された魔物は大人の背丈ほど大きく赤黒い。
その細かい牙から唾液を滴たらせその図体に似合わない敏捷さで彼らを追う。
逃げた。後ろなんて振り返らずに。アリーナの手をしっかりと握って。
しかし、魔物の気配は消えるどころかどんどん近づいてくる。アリーナの手を強く握った。
「こっちだ!」
魔物は声のする方に標的を変えた。たいまつを持つ緑の衣装の青年。
彼はたいまつを左手に持ち替え、胴の剣を抜きおおみみずの前に臆することなく立ちはばかると、炎を掲げる。
炎に一瞬ひるんだ隙に一太刀浴びせると、おおみみずは思わぬ劣勢に土の中へすばやく逃げ帰っていった。
「遅くなってしまって申し訳ありません。だいじょうぶですか?」
彼は完全に魔物の気配が消えたことを確認すると胴の剣を納め二人の元に走りよった。
「はい、ありがとうございました」
クリフトのしっかりとしたその返事に彼は微笑んだ。優しい微笑みであった。
たいまつの炎に照らし出された姿は金色の髪と碧の瞳を持つ青年。年は20歳前後であろうか。
「姫様もお怪我はありませんか?」
アリーナも頷いた。
「あの、あなた様は…」
青年と城へ向かって歩きながらクリフトはおずおずと尋ねた。
彼は疲れて寝てしまったアリーナを背負い、クリフトの手を引きながら答える。
「私はサントハイム城に仕える神官でフレイといいます」
そう。大臣達がまさかアリーナを一人で抜け出させるはずがなかった。
ずっと危険がないか見守っていてくれたのだ。しかし、神官の誤算はクリフトが年不相応に冷静であったこと。
魔物の特性にいち早く気が付き対処できたため魔物の発見が遅れてしまったのだ。
よく冷静に対処できたね、とクリフトを褒める。
話をしながら歩いているとやはり彼はサランの神学校の卒業生だった。頼もしく理知的な先輩。
(この人が…神官!)
彼の姿はクリフトの脳裏に印象的に焼きついた。
すると、ようやくサントハイム城の城門の明かりが見えてきた。
「このおおばかもんが!」
ブライに怒鳴られ、クリフトはきゅっと目を閉じた。
城の中は大騒ぎだった。
アリーナが城を抜け出し、夜になっても戻らない。騒ぎになって当然である。
ブライは城門の前で仁王立ちでいつ戻ってくるのか知れない三人を待ち構えていたようだった。
侍女たちが眠っているアリーナを連れて行くのをクリフトもブライも城門で見送る。
また、長いお説教になるとクリフトはその場に両膝をつき頭を下げた。しかし、聞こえてきたのはため息だった。
お説教よりも心が痛い。信頼を裏切ってしまったことを痛感する。
「姫様を危険な目に合わさせてしまいました。大変、申し訳ありませんでした。どんな処罰でもお受け致します」
クリフトは必死にブライに頭を下げた。
「あまり、心配をかけさせるでない。…寿命が縮んでしまうわ…」
はっとして顔をあげると、ブライは涙の滲む手でクリフトの肩に手を置いただけだった。
「お前さんも無事で本当に良かった」
ブライは側に控えていたフレイに命じた。
「悪いが、こやつをサランまで送ってやってくれ」
「承知致しました」
フレイは流れるような動作で頭を下げるのを見て、ブライは無言のままに城内へと戻っていった。
がっくりと項垂れているとフレイは手を差し出した。
「大丈夫。ブライ様も心配だからついつい大きい声を出してしまったんだ」
「はい…」
やっとのことで声を出す。
「ん、さっき小石でも当たったのかな?」
フレイに言われて初めて、頬が少し切れているのに気が付いた。
「学校でまだホイミは習っていないよね?」
「まだです」
フレイはクリフトの肩に手を置いて微笑んだ。
「じゃぁ、私がかけてあげるからね」
クリフトの頬に手をかざして神聖呪文の言葉を紡ぐ。
温かい。彼がそう思ったときには頬の傷は完全に癒えていた。
「すごい…!ありがとうございます」
「もう痛くない?よかった」
フレイは聖職者を絵に描いたような人物だ。クリフトはすぐに彼のことを尊敬した。
「あの、私も、卒業したら神官になりたいんです」
「そうなんだ。じゃぁ、今度は私がケガをしたらホイミをかけてもらえるんだね」
優しく笑う彼にクリフトは元気をすっかり元気を取り戻したようだった。
サランへと向かって歩くクリフトは、今日は散々な目に合ったが、彼に出会えたことを神に感謝した。
神学校の入り口で、
「次に来たときにはブライ様に孝行してあげるといいよ」
そう言ってくれる優しい先輩にクリフトはずっと手を振って見送った。
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