細かく聖書の出来事の図柄が掘り込まれた見慣れた礼拝堂のドアをクリフトはゆっくりと押した。
「失礼します」
クリフトは実に久しぶりにその礼拝堂に入る気がした。
旅に出てからどれくらいの時間がたっているだろうか。
神像の前で神官長は相変わらず元気そうだった。
クリフトは小さい頃から知っているが、その頃にもすでに髪も髭も真っ白で背も縮こまった高齢の老人だった。
全く同じことを他の神官の口からも聴いたことがある。
今現在、目の当たりにしていても神官長はまったく変わりなく温和に笑っているが、
もしかしたら、巡礼の旅を経て、その後も修行を積み、不老不死でも得ているのではないかと思ったこともあるほどだ。
「クリフト、良く戻った。旅はどうだったかな?」
「はい。おかげ様でこうして無事に戻ることが出来ました。貴重な経験をさせていただいたことを感謝いたします」
そして、クリフトはテンペで起こった悲しい出来事、フレノールでの悔しい事件、砂漠へ向かったことを
こと細やかに順番に報告していった。
その一つ一つに神官長は嬉しそうに頷いたり、不思議そうに首を傾げたり、同情の色を見せたりと
非常に話しやすく、ありがたいものだった。
ただ、どうしてもフレノールの南の洞窟に指示を破り、入ってしまったことが切り出せない。
クリフトは考えあぐねた。
その一瞬の閉口を、神官長は見逃さなかった。
「禁じられた洞窟の件を気にしているのかね?」
すでに知っているようだ。クリフトは包み隠すことをやめた。
「はい。過去の歴史学者の神官の遺物も発見しました」
「…まぁ、良い。無事に帰ってきたのだからの。その神官はどうした?」
「余裕がなかったので、洞窟の外に埋葬しました」
クリフトの言葉に、哀れな先駆者のことを思ってのことだろうか、神官長は寂しそうに、そうか、と頷いた。
「そこで呪いの品を持ち出しました。それが盗賊達の条件だったのです」
唸るような声を出しながら、神官長は考えているようだった。
「不吉な予感がするが、お前が呪いという以上に危険を感じなかったのならば、過ぎた話だ。
ここは様子を見るしかあるまい」
はい、とクリフトは軽く頷いた。呪いといっても人に不幸をもたらす、その程度のものだろうと
推理していたからだ。入ったことに関して寛容な対応をしてくれていることが何よりだった。
「他に何かなかったか?」
「他にですか?」
顎に手を当てて、懸命に思い出す。
「謎の祭壇が数多く見つかったことや、魔物の遺骸で埋め尽くされていたことくらいです」
そこまで重要な話でもあるまい。それは過去の研究者の功績でわかっていることだろう。
神官長は明らかにほっとしたようなため息をついた。
「時に、クリフト。今、この国を包む邪悪な空気、気配。感じておるか?」
クリフトは突如、漠然とした質問を投掛けられ、少し考えたあと神妙に頷いた。
確かに。テンペの件もフレノールの件も、そして今回の陛下の件も、
立て続けに起こりすぎている。邪悪な何かが背後にある。そんな気がしてならなかった。
それを感じていたことを神官長は満足に思い、感心して頷いた。
「やはり、お前が適任のようじゃな。
陛下は姫様の旅をエンドールやその他の国に行くことを許可されておる。
クリフト、姫様を全力でお助けしなさい」
旅の続行。それはクリフトが考えてもいなかった話だった。
その真意を掴みかねて、言葉を失う。
「…クリフト、お前が戻る前に私は神官を全員集めて話をした。
このことについてじゃ。私は今回の件、全て深刻に受け止めておる」
神官はそれぞれが違った役目を持っている。
そのため、神官全員を集めること。それはそうある話ではない。
あるとすれば、国をあげての祭典、儀礼のときくらいだ。
そのことからも、いかにこの事態が重く見られているのかが分かる。
「…もしかしたら、大きな災いも降りかかるかもしれない。
そのときには必ず、姫様をお守りするように」
ようやく、話が見えてきた。これは今までのように、魔物や悪意のある人間から
姫を守るという話ではない。得体の知れない、災い。それらから姫を守るという大任なのだ。
「私につとまるのでしょうか?」
「お前以外にはいないと思っておる」
神官長はきっぱりと即答した。そして、どこからか四つに折られた小さな紙を取り出し、クリフトに手渡した。
「今は中を見ないように。そして、どうしようもなくなったときにこれを見なさい」
クリフトはその言葉に無言で承諾すると、そのまましまい込んだ。
「それでは、行きなさい。今頃、姫様もエンドールに向けて出立の準備を整えておるはずじゃ。
喜ぶ顔が目に浮かぶようじゃの」
クリフトの脳裏にも、アリーナが喜んでリュックにおやつをつめている様子が浮かぶ。
そして、置いていきなさい、とブライが注意する様子も。くすりと笑の声が漏れた。
「気をつけていくのだよ」
「はい」
クリフトは素直にアリーナの元へ向かうべく、踵を返した。
そして、クリフトの知らないところで、二人の神官が決意を持って佇んでいた。
この会話をクリフトは生涯知ることはないだろう。
「サーフィス、フレイいつまでそこで立ち聞きしているつもりじゃ」
神官長は呆れたように背を丸め、声を投掛けた。
「サーフィス先輩もいらっしゃっていたんですか」
柱の影、その暗い場所からフレイが困った顔で姿を見せた。
そして、次に別の影から、ティゲルトよりも更に年上、
40の齢を数えるであろう柔和な顔をした神官が現れた。
神聖魔法学を修める神官サーフィス。
ティゲルトよりも何年分か長い経験を持つ神官で、神官長の脇をティゲルトと共に双璧となって固めている神官だ。しかし、本人は人望がありながら、研究者としての勤めを良しとして
ティゲルトに副官を任せる変り種でもある。
「申し訳ございません」
二人の神官は進み出た。
「なにか用かな?」
「おそらくは」
フレイはサーフィスを目で指した。
「サーフィス先輩と同じかと」
サーフィスはそれを聴くと、ふぅん、と頷いた。
「まず、一つはクリフト君が心配だったということですね」
フレイは自分の教育している後輩のことを伝えた。
数少ない神官達の中でも最も若い後輩のクリフト。若いだけあって、経験に乏しい。
気になってしまうのも仕方のないこと。
「そして、二つ目。こちらが本題です」
話の主導権をサーフィスに譲る。中年の神官は、前髪をかきあげた。
「姫様の避難計画のことです」
サーフィスの言葉に、フレイはその重大さに険しい顔で視線だけを神官長に向けた。
そう、先日、神官全員を集めて話をされたのがこの計画だ。
恐らく、この国に大きな災いが訪れるだろう。
敏感にそれを察知した聖職者を纏め上げる神官長の進言ですぐに王は、アリーナを遠方に避難させることを決定した。
そして、それを何の不自然もなく行うためには、旅の延長という形が一番望ましい。
「……厳戒の警備体制と警戒を、と話をされたというのに、ティゲルト、セイルート、ルオンの三人を実のない出張に送り出す真意を確認したいのです」
武力、指導力の副官ティゲルト、医学者であり神聖魔法の達人セイルートと薬草学のルオン。
彼らが抜けたら、残るは書庫管理官や教育指導官、
フレイを除けば共通して戦いに不向きな研究者の神官のみが残される。不可解と思わざるを得ない。
サーフィスの疑念は続く。
「そして、神官長はいつも気に食わないと仰っていた竜十字騎士団にも連絡を取っていますね」
静かに耳を傾けていた神官長は何も言わない。サーフィスが悲壮感の漂う瞳で、結論を言うべく口を開いた。
「……僕が思うに、神官長は我々に」
「そうじゃ」
神官長ははっきりとした口調で妨げた。
「……お前達が城に残る意味。それは、お前達に死んでもらうためじゃ」
フレイとサーフィスは一様に微苦笑した。
「はっきりとそのお言葉を聴けて嬉しく思います。サントハイム神官フレイの命、存分にお使いください」
「……残るのがティゲルトならば安心して逝けます。見事な采配、感服致しました」
二人の神官の言葉に神官長は、
「すまんな」
と、一言だけ返すだけだった。
三人は新たな地、エンドールへ向かうべく祠の中を歩いていた。
「やれやれ、ようやくのんびりとした生活が返ってきたと思ったのにのう」
ぼやくブライにアリーナは上機嫌で肩を叩いた。
「あんなに、冒険したのに、急にのんびりとなんかしたらボケちゃうわよ」
「なんですと、そんな年ではありませんぞ」
全く説得力のないブライの言葉はきっと冗談なのだろう。クリフトはそう思って声を出して笑った。
「だけど、お父様が見た夢ってどういうことなのかしら?」
アリーナの話す王の見た夢。それは地獄の帝王が復活する夢らしい。
クリフトは王がその話をしている場に同席はしていなかったが、王の青ざめた顔は長年相談役として控えるブライも
見たことがなかったほどだと聞いた。
アリーナは所詮夢だろう、と気楽なものだが、クリフトにはそうは思えなかった。
(……サントハイムの王族には予知夢の能力があるという話。神官長の話もあるし、嫌な予感がするな…)
その予感が具体的にどうなるかわかるわけでもない。クリフトは不安に思うままにブライについて祠を進んでいく。
そして、辿り着いた祠の奥。そこにあったのはうっすらと光る装置だった。
「ワシはこれが苦手でしてなぁ」
目の前で不思議な光をたたえながら渦を巻いて回る水のような装置。一般に旅の扉と呼ばれるものだ。
これはサントハイム領地をエンドールの領地をつないでいる。クリフトは使ったことはなかったが、
人によってはその使用感覚はまったく受け付けられないこともあると聞いたことがある。
だが、何故かクリフトはその光にまったく嫌なものを感じない。むしろ、安心感を覚えるほどだ。
その緑色や黄色、そして、白色にすら変化を続けるその水は目に楽しく暇さえあればずっと眺めていたっていい。
「クリフトは平気そう?」
アリーナの問いにクリフトは余裕のある笑顔で肯定した。
「…私は、これ見てたら早速酔っちゃいそう」
アリーナはかなり残念そうに頬を膨らませると、恨めしそうに装置を睨み上げている。
「本当に平気?高いところみたいに具合悪くなっちゃわないの?」
苦手なのは高いところであって、水のようなものは全く問題ない。
恐らく、そんな細かい違いよりも、またパニックを起こすことを懸念されているのだろう。
クリフトは力なく空笑いした。
「…きっと、だいじょうぶですから」
「そっか。ところで何で高いところがだめなの?」
そういえば、塔の中で問い詰めると、アリーナが言っていたことを思い出す。
出来たら、忘れていてほしいのだが。
「何かいやなことでもあったの?」
居辛い。
「い、いえ。自分でもよくわからないので。それよりも早く行きましょう」
逃げるようにその光に飛び降りた。
体が融けて、光の流れと一体になるかのような感覚。
そこには右も左も上も下もない。
その奔流は勢いよく流れる滝のように、
そして、小川のように、不規則な流れを繰り返しながら流れていく。
ゆっくりと体が再び戻ったような気がすると、そこは出発前の祠とは違う作りの場所だった。
(確かに、これを苦手だという人は多いだろうな)
遅れて到着したアリーナとブライが今にも死んでしまいそうな青い顔をしているのを見て、
クリフトは声を殺して笑った。それまでは、逆の立場だったのだ。笑うくらいで罰は当たらないはず。
「笑ってないでホイミしてよぉ…」
見つかってしまったか。クリフトはすみませんと謝ると、多分効果は薄いだろうが回復呪文を唱えた。
その祠から這い出すように二人がよろよろと出て行くのを後ろから見守るようについていくと、
そこには宿屋が併設されていた。こうして、旅の扉に入って体調を崩した人のことを考えているのだろう。
クリフトはその気遣いに感心した。とにかく、アリーナとブライはそこで休ませたほうがいい。
主人は慣れたことなのか、気分が晴れるからとハーブの入った水を出してくれた。
アリーナは渡されるやいなや一気に飲み干す。ブライは少しずつ口に含ませながら、周囲を見回した。
「思ったよりも客が多いようだの」
ブライの言うとおり、その宿屋にはエンドールの辺境の地だというのにあまりにも旅人が多い。
用意されていた部屋は全室埋まっており、娘と老人が具合が悪いことを座って休んでいる戦士に説明したら、
幸運にも席を譲ってもらえたが、待合室のソファーにも座れない旅人が溢れているほどだ。
サントハイムとエンドールの国境を越える人間がこんなにいるはずもない。
どういうことなのか、判断がつかなかった。
「あ、これでしょうか?」
クリフトは壁の張り紙に気が付いた。それは、勇ましい鎧兵士と武道家の絵が描かれており、
『武道大会開催!!』の字が一際大きく目立っていた。
クリフトがじっくりとその張り紙を見つめていると近くに佇んでいた戦士が話しかけてきた。
先程、アリーナとブライに席を譲ってくれた人物だ。
「随分とその大会は話題をよんでいるようだな」
「そうなのですか」
その桃色の鎧は珍しい形式のものでサントハイム地方やエンドール地方では滅多に見ることはない。
どこか遠い異国の戦士だろうか。
「貴方も出場なさるのですか?」
「いや、俺はある目的のために旅をしている。この大会のために来たわけではない」
戦士は実直さと誠実さが滲み出るような口調でそう話す。
「…目的、ですか」
「ああ。勇者となるお方を見つけ出して守るための旅だ」
……勇者。
「地獄の帝王の復活を阻み、世界を救い出すお方を探している」
(そういえば、陛下がそういった夢を見たと姫様とブライ様がおっしゃっていたような)
クリフトがそう思い当たり、無言になったのを戦士は悪い方向に受け取ったようだ。
「すまない。そなた達に話しても仕方のないことだった」
「あ、いえ、そういうわけでは…」
戦士は話を変えようと張り紙を再び見て示した。
「そなた達はこれを見に行くのか?」
アリーナは大会に興味があるだろう。クリフトはそれを肯定しようと頷いた。
「そ…」
「…出たい」
アリーナの苦悶の声。
「私も、それに出たい」
「……え?」
言われたことはすぐに理解できたが、その内容を信じることが出来ず、ついつい間抜けな声が出てしまった。
「…観たい、ではなくてですね?」
恐る恐る確認してみる。アリーナは青い顔で下を向いたまま頭を何度か上下させた。
戦士は本気なのか冗談なのか受け取りかねているようだ。苦笑いを浮かべて、クリフトに握手を求めた。
「…では、お嬢さんと翁を守りながらの道中、大変だろうが気をつけて行かれるといい」
「ありがとうございます」
そういって戦士と別れるものの、本来ならその通りなのだろうな、とクリフトも苦笑を禁じえなかった。
アリーナが青い顔でふらふらと立ち上がる。
「…早くエンドールに行きましょう」
クリフトはなんとも言うことが出来ないまま、ブライの肩を叩いた。
「ブライ様、どうやらもう休憩は終わりのようです」
「……うぅ…仕方ないのぅ」
ブライはよろよろと立ち上がる。
同情を禁じえないが、クリフトも早く初めて踏むエンドールの地を見てみたかったというのもある。
少しずつ快方に向かう二人を保護者のように導きながら、エンドールの城下へと歩き出した。
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